モテ→非モテ→微モテ→某G→モテと変遷してきた、Pぱんの過去について

モテ→非モテ→微モテ→某G→モテと変遷してきた、Pぱんの過去について

Pぱん

どうも、Pぱんです。

今回は僕の“過去”について語ろうと思います。

ただの会社員が、どうして西麻布でお茶するようになったのか。

しかも最小単価でラウンジ嬢を抱けるようになったのか。

そんな僕の過去を覗けるような内容になっています。

特に会社員として働いている人にとっては、興味深い内容になっていると思うので、ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

では、早速本編に入っていこうと思います。



1、小学生時代

今でこそ、港区のラウンジ嬢攻略を生業としている僕ですが、生まれは神奈川の片田舎でした。

神奈川県の、端っこも端っこの、だいぶ田舎です。

そこで通っていた小学校の環境はと言うと、同学年は19人しかいませんでした。

しかも、そのうち男子生徒はたったの6人。

おかげで、サッカーって11対11でやるものですが、小学校時代に同級生と校庭でやっていたサッカーは、3対3です笑

反面、モテという側面ではライバルは6人しかおらず、短距離は早かったのでモテる(、、、といっても分母6ですが笑)男の子でした。

また、親の教育方針でピアノなどのお稽古事もしており、当時は友達との遊びより勉強や習い事を優先的に、いわゆるスパルタ(田舎レベルの)教育を受けていました。お稽古がある日はすぐに帰って、犬の散歩をしてから、ピアノ教室に向かう。

そんな小学生時代を過ごしていました。

さて、そんな環境の中で、僕はどんな人間模様を描きながら過ごしてきたのか。



実は、今の港区攻略のイメージとは裏腹にシャイを全面に出した男の子でした。

どれくらいシャイかと言うと、小学生時代は知らない人知らない町が嫌で隣駅(電車で2分程度)に行くのも大旅行と考えていました。

その反面、自分の知っているコミュニティでは元気よく、少ない人数ということもあり変にヒエラルキーも作られず自分で言うのも変ですが、素直に育ちました。

変化があったのは中学生からです。



2、中学時代

親の教育のお陰もあって中学時代は無遅刻無欠席を通していました。

ただ、いわゆる真面目君みたいなほどではなく、ある程度は肩の力が抜けていたという感覚です。

そして、やはり田舎だったのでヒエラルキーの頂点に君臨していたのはヤンキーでした。

イメージ、上から

1.ヤンキー
2.ヤンキーと上手く付き合う無難な層
3.陰キャ層

みたいな感じです。

ヤンキー層は、野球部・サッカー部・陸上部。

その下にバスケ部・テニス部。

最下位層は、今でいう陰キャやガリ勉の層。

みたいな感じです。

その中で僕は中間の層。ヤンキーと話はするけど、サボったり喧嘩したりた○こ吸ったりなど、職員室には呼ばれないポジションに位置していました。

後ろ指さされることもなければインキャすぎることもない。

この時代の僕を一言で表すと、”器用貧乏”という言葉がピッタリなんですね。

八方美人で、誰とでも、どの層とも話すという立ち位置でした。

今思えば、この頃から組織やコミュニティーの中での立ち回りが上手かったんだなぁと思います。

だからこそ、ヤンキー層とも、マイルド層ともうまく関わり立ち回ることができました。

集団戦で上手く立ち回る力はこの環境下で鍛えられたんでしょうね。



とはいえ、ヒエラルキーのトップにはいない、ちょっと真面目な子です。

当然、先輩からのいじめとかは普通にありました。

ある時、部活仲間の一人がある先輩をディスったことがありました。

帰り道にちょっと大きな声で話したのがよくなかったんだと思います。

悲運なことに、それがその先輩にばれてしまったのです・・・

そこからは、もうお察しの通りです。



後日、その先輩たちに呼び出されました。(田舎あるあるですね笑)

「あー、まじか」

と思いましたが、連帯責任で僕もぼこられました。

それこそ、罵声を吐いた友人はフルボッコもフルボッコです。

特にひどかったのは、”釘抜き” で背中を叩かれたこと。

あの痛みは、人生でトップ3に入るぐらいには痛かったです。

(今こんなのがバレたら、大問題になってしまいますね笑)



その時は部活仲間に「あほが、もっと上手くやれよ」など、負の感情を抱きましたが、ボコられ終わった後は、謎に絆が深まりました。笑

そんな釘抜き事件もあったのですが先輩からは謎に好かれていました。

謎だらけですね。笑



もちろん同級生とは仲が良かったです。

というか、他の学年に比べても全体的に仲の良い学年でした。

ただ、僕はそんな同級生たちと浅く広く付き合っていて顔も広かったですが、本当に仲がいい人は、ごく少数しかいませんでした。(まぁそれが普通ですかね?笑)

そんな中学時代でしたが、恋愛方面についても語ろうかなともいます。

この界隈には、学生時代はガチ非モテの人が多いですが、中学時代の僕は待ってれば告白される人生でした。



というのも僕は

・勉強できる(片田舎で)

・バスケ部の部長(片田舎で)

・ピアノが弾ける(片田舎で)

という、地元では超優良物件だったからです!



ということで中学時代は、勉強・部活・恋愛の方面はいい感じに過ごすことができました。

ただ、待っていれば女がくる状況だったため、恋愛に関しては完全に調子に乗っていました。

これが、あまり良くなかったですね。

まさか、この状況が後に本当に辛い事件を引き起こす原因になるとは、当時は思ってもいませんでした...



3、高校時代

そんな僕の高校時代。

中学時代は、待っていれば女が寄って来る状況だったので、恋愛に関しては完全に受け身状態。

しかし、もう高校生です。

恋愛事情はガラリと変わり、大抵は男が女に告白するのが普通。

にもかかわらず、僕は全くその状況についていけませんでした。

なぜなら、自分から主体的に動く恋愛の方法を知らなかったからです。

要するに、黙っていても女のほうから次々とアプローチを受けていた僕は、「女は告白されたい側」だと知らなかったのです。

おかげで、高校生になってからは女の子から全く告白などされなくなりました...

中学生の時は、「部活も勉強も恋愛もあんなに上手くいってたのにな」。

そう思いながら、そのギャップに悶々としていました。



そんな日常を過ごしていたある日、昼休みに仲間たちとトランプしていたときのこと。

友達の一人が「なんかおもろそうなやつがあるぜ」と、何かを持ってきました。

持ってきたものを見ると、なんと女子のロッカーに入っていた少女漫画をそいつは持ってきたんです。

とはいえ、高校生です。

興味本位からから、その漫画を教室の片隅で読み始めました。

たしか、『NANA』『ハチミツとクローバー』『君に届け』とか、そんなラインナップだった気がします。

今まで、縁のなかった少女漫画。

最初は、普段読む少年漫画とはかけ離れた絵柄に違和感がありましたが、いつのまにか夢中になってページをめくる自分がいたんですよね。



「なるほどね、女ってこんな感じなのか~」



持ち主の子や他の女の子に漫画の話をしても「そうそう!めっちゃいいよね!」

と共感の嵐。隙があれば読み進めました。

それまで完全受け身で恋愛のステップを全く知らなかった僕にとってまさに目から鱗状態です。完全に教科書となりました。

(ただ、この時代の”友情”や”進路”など、恋愛以外の要素が強まる少女漫画のトレンドに苦しまされることになることは、この時は知る由もなかったですが...)



一応こんな風に、僕も高校時代は恋愛に対して試行錯誤していました。

部活仲間に相談したり、少女漫画を読んだり、なんとか頑張って女子に話しかけてみる。

当時を振り返ると、もはやそんなことをしていた自分が可愛いですね。笑

そんな僕に、チャンスが舞い込んできました。



秋になり、高校1年生にとって初めての文化祭の季節。

高校生活にもだいぶ慣れてきて、クラスも打ち解けてくる時期です。

イベントごとでテンションも上がり、クラスは出し物の準備のために賑わっていました。

そんな時、ひょんなことから、もともと仲良くしていたクラスで1番可愛かった子と一緒に、文化祭の買い出し係に任命されました。

「こんな運命的なシチュエーションあるんか!」

少女漫画ばりのこの流れに、僕の心は踊りに踊り狂いました。



初めての文化祭という非日常の、さらにレアなイベントのなかで、二人きりです。

移動中や買い出し中、キャッキャウフフとおしゃべりをして、僕たちはさらに仲良くなりました。

お互いのことを意識しあっているのがわかる、いい感じになったタイミングも多々ありました。

ただ、中学時代までの恋愛で受け身だった僕です。

どういうセリフを言えばいいのか、どう動けばいいのか、全くわからない。

頭の中では、少女漫画のシーンが蘇ってきます。

「告白やチューをするには…その前にいい雰囲気にするには…。え、何を話せばいい!?」

ゴール設定もなにも全くわからず、頭も心もただ、あっぷあっぷしていました。



結果としては、ついに最後まで決定打を放つことはできずに、買い出しを終わらせ、教室に戻ってしまいました。

まあ、けど少女漫画的には何気ない2人の時間にときめいてたりするいっか。

と思い、「じゃあ今度遊びに行こうよ」と映画を見に行く約束だけは取り付けることができました。

その約束を取り付けた日から、映画を見にいく日まで、僕は毎日ドキドキしながら楽しみにしていました。

しかし、なんとその約束は果たせずに終わってしまったのです。

理由は、部活の大会などの都合で、お互いのタイミングがなかなか合わずじまいだったということ。



それでも映画にはいけなかったですが、それ以降の日々は、その子とガラケーのメールで連絡は取り合っていました。

当時はガラケー全盛期。

その子から届くメールの絵文字にいちいちキュンキュンしていました。

また、ガラケー世代ならわかっていただけると思うのですが、好きな子からのメールを

意味がないとわかっていながら「センター問い合わせ」を何度も何度もして待っていましたよね。

今でいう、LINEに既読がつくかどうか何回もチェックしてしまうアレです笑



ただ結局、映画デートは実現せず、気づけば青春の文化祭から2ヶ月間が経過していました。

大会も終え、部活も落ち着いてきたかなという時期。

もうここしかない。

そう思い、決死の思いで、

「今度どっか遊びに行こうよ」

と、その子をデートに誘ったのです。



そしたらすぐに返事が返ってきました。

僕はすぐさま、その返信のメールをウキウキしながら開いてみたところ、、、、




「ごめん、彼氏できちゃったの」




現実は非情なものです。

僕が何もせず、現状に甘んじていた間に、その子には彼氏ができてしまったのです。

僕は自分の部屋で泣きながら、のたうち回った。

泣きこそはしないまでも、焦りと怒りが入り交じった感情が芽生えました。

文化祭での甘酸っぱい確変イベントの記憶が蘇る。

映画デートにも行くはずだったのに。

あんなに仲良くメールも続けていたのに。

あのハートの絵文字は?

なぜ...



そして僕は、この辛い失恋から学んだんです。

「女に対しては、モタモタしていては切り捨てられるのだ」

「クイックで行かなきゃダメだ」

「待ちの姿勢では、なにも進まないよ」

ということを。笑



この大きなショックは、この教訓を僕の胸に、強く強く刻んでくれました。

ただこのショックはあまりにも大きく、高校時代の最終的な戦績としては、部活の引退後に彼女が1人できただけ。

中学生時代は、天狗になって女の子からの告白を断りまくり、選り好みしていたにもかかわらずです。

完全に不完全燃焼。

まさに恋愛の低迷期に陥ったのです。

ただ、この蓋をしたくなるほどの悔しい原体験のおかげで、学生時代と社会人以降では、恋愛の体質が変わりました。

この教訓は今でも使っています。

それを学ぶことができたのです。



4、大学時代

さあ、気を取り直して大学へ!

と行きたいところですが、1年間の予備校生活を挟みます。

そして、どういうわけか、医者を目指していないのに間違えて医学部コースに入りました。

どうしてだったかは、忘れました。
たぶんモテると思ったからです。笑

しかし医学部コースには医者の息子などが多く、経済的に裕福な生徒が多くいました。ブランドに身をまとっていた浪人生も少なくありません。
ハイブランドが嫌いになったのは多分その瞬間だと思います。笑

あとギャル男みたいのがいたり、チャラチャラしていました。

僕はそんなチャラけた雰囲気に嫌悪感しか抱きませんでした。

ただ、そんなチャラチャラしていたやつを横目に、大学にはさらっと合格(もちろん医学部ではない。笑)し、そのまま上京。(神奈川から東京に移動しただけですが笑)

東京の大学に通いながら、一人暮らしを始めました。



そして大学1年目。

舞台を東京へ移し、1人暮らしも始まったので、さあ暴れるぜ。

と意気込んでいたものの、全くそんなことは起こらず、僕はスマブラばっかりしていました笑

というのも、とにかく大学の授業が想像していたのと違いすぎて、本当につまらなすぎたんです。

それはそれは本当につまらなすぎて、退学も頭によぎるほどでした。

そこで転学も視野に入れて、なんとまたまた予備校へ。

割とゴリゴリ勉強をし始めました。



ところが、ちょうど予備校の夏期講習が終わった時期。

なんと急に大学の授業が楽しく感じてきたのです。

心機一転、気を取り直して大学生活を楽しもうということで、大学1年の冬前にサークルに入りました。

高校まで続けていたバスケのサークルです。

手始めに、サークルでのスノボ合宿に参加しました。

合宿ではスノボーで爽快に滑り倒し、宿舎に戻ってからはブルーシートを轢いて、コールの大合奏。

僕もつぶれにつぶれまくりました。

この時は、本当に楽しかったですね。笑

おかげで、そのサークルでは、それなりに楽しい生活を過ごすことができ、いわゆる大学生活!みたいな時期を過ごすことができました。



そうこうするうちに、春が訪れ、僕も大学2年生に。

そして、サークルには新入生が入ってきました。

僕も、ここからさらに大学時代を楽しもうというスタンスをとり始めたタイミング。

そんな中、とある新入生が僕の目にピン!と止まりました。

その子は同じ学年の子が連れてきた、短大の子。

一言でいうと「中村アンの完全下位互換」の女の子です。

(この後はアンと呼びます。)

背が低くて、可愛らしい小動物系といったイメージです。

スタイルは、背が低くてO脚。胸の大きさにコンプレックスがある子でした。

顔は、ふたえで正面から見たら可愛いけど、鼻筋はそこまで通っておらず

横から見たら平面という、平たい顔族のよくある日本人の顔です。



そんな子でしたが、僕は「なんとかものにしたい。」

そう思い、アプローチをすることに。

ただ昔の僕とは打って変わって、コミュニティ恋愛は割とできるようになりました。

もともと器用貧乏だったのと、学生時代やサークルでの集団の中で上手く立ち回ってきた経験が功を奏して、それらをいい感じに恋愛のスキルに応用できるようになったからです。

いつか皆さんにも詳しくお伝えできれば思いますが、感覚的には

"さらっと"上手い感じに持っていくという感触です。



当時は、ナンパはがっつりはできませんでしたが、コミュニティの中で、シャイなりに他の男子と差別化できるのが強みだったので、その子ともうまく仲を深めていくことができました。

ちなみにアンは、僕と同じ神奈川出身で、湘南の女の子でした。

アンをロックオンしたからには、モタモタしていられない。

高校時代に失恋したときの僕とはもう違うぜ。

教訓を活かして、他の男がアンに対してアクションを起こす前に、とにかく”最短”を心がけましたね。

 集団の中で巧く立ち回り、少しずつ差別化させていく。

今思えば、楽しませるという感覚もあったように思います。

がっつくというよりは、なんかおもしろい先輩という印象を与える作戦です。

それが功を奏してデートを取り付けることできました。

こうして2人でドライブに出かけることに。



そして当日。

家の近くまで迎えに行き、いい感じの音楽をかけながら、夜景が有名な峠へ。

まさによくあるドライブデート。計算通りでした。

そこで僕は...




まさかの実家に搬送しました。笑




若イケならそこでホテルへ搬送でしょうが、安パイに走り、何を思ったのか実家に搬送です。

高校での学びはどこにいったのでしょうか。笑

ちなみに両親には「大学の後輩だよ」と紹介しました。

当然のように、当時は界隈の情報をキャッチできておらず、少女漫画で恋愛を学んできた僕です。

高校時代の教訓は胸に刻まれているものの、その日はアンに手を出すことは、できませんでした。



ただ、翌朝。

なにかアクションを起こさねばと思った僕は

「付き合おう」

と、まさかの翌朝起きた直後に告白しました。



アンも驚いてはいましたが、

「いいですよ」

と、まさかのOK。



付き合うことになりました。

ちなみに後日、アンにこの件について

「もし、あの実家に泊まった時って手を出してたらどうなったの?」

と聞いたところ、



アンは

「絶対に付き合ってない」

とのこと。



僕はホッと胸を撫で下ろしました。

今思うと、また非モテが加速した瞬間ですね。 



その後、アンとは半同棲し、ほぼ毎日一緒にいることになります。

不純大学生活の始まりですね。

ただ本当に幸せでした。

沖縄へ旅行に行き、シュノーケルやマリンスポーツ、ドライブを楽しんだり、

日光に行って温泉旅行をしたり、

夜中にコンビニまで散歩してアイスを買いに行ったり

一緒に犬の散歩をしたりと、日常の些細なところまで充実した日々を過ごすことができました。



また、当時アンは料亭でバイトしていました。

そこの食材ををわけてもらって、

僕の誕生日に、ステーキ御膳を作ってくれたんですよ。

それが学生の僕にとっては、”結婚のままごと”のようで、

もう何というか、くすぐったくて、ほっこりそわそわ幸せというひとときだったのです。。



ただ、ほどなくして、短大生だったアンは、2年で卒業しました。

そして、アンは就職先の熱海に引っ越して、一人暮らしを始めました。

それからは、だいたい週に1回は会っていましたね。

お金がなかったので、小さな自動車を走らせ、下道で熱海までアンのもとに遊びに行っていました。

それでも僕のアンへの思いは変わらず、幸せだなと思いながら日常を過ごしていました。 

そうして、僕にも大学卒業のときがやってきます。



5、社会人

僕は大学を卒業し、就職をして社会人になりました。

アンとは、この時も週に1回会っていましたね。

大学生の時は、車で下道を走り移動。

もしくは、僕の世田谷の自宅に来てもらっていました。

社会人になってからは、お金にも余裕ができて新幹線で遊びに行っていました。

しかし、この幸せな生活にもついに終わりが訪れます。



僕が社会人2年目、アンが社会人4年目の時期。

付き合って5年が経過していました。

僕がデスクで業務に励んでいたときのことです。

LINEでアンから急に、

「別れたい。終わりにしたい。」

と連絡が入ったのです。 



その瞬間血の気が引き、頭が真っ白になりました。

もう仕事の内容は全く頭に入ってきません。

ただ、「どうにかしないと。」

そんな思いから、隣のデスクの5年先輩の女性社員に

「先輩。やばい、振られました。午後、休んでいいですか。。」

と相談したところ、前から彼女の話をしていたその先輩は様子を察してくれて

「え!?大丈夫?行っておいで!」

と即帰宅することに。



こうして午後休をとり、そこからの僕の行動は異常に速かったです。

新幹線のチケットをとりながら駅へ向かい、そのまま熱海へ直行。

今思えば、これがもう非モテコミットです。



そして、熱海に到着し、すぐさまアンの自宅へ。 

僕はアンの自宅のカギを持っていたので、入ることもできました。

ただ、ちょっと冷静になった僕は、それではアンを怖がらせてしまうなということで、近所のコンビニで時間をつぶしていました。



そして夕方。

日が沈みかけた頃、仕事終わりのアンがコンビニの前を過ぎていきました。

疲れた気持ちを奮い立たせ声をかけましたね。。

アンは最初は驚いていましたが、

「どうしたの?」

と一言。



僕は、別れを望むアンに対して、

「なんで?」

と聞くと、



アンの言い分は「仕事に集中して頑張りたい」とのこと。

僕にとっては意味の分からない、本当に納得のいかない理由でした。

「いつ、仕事のじゃまをした?」と。

しかし、これ以上引き下がっても、アンの意思は硬いと察して、

仕方がなく、アンの家にある僕の荷物をひきあげることにしました。



その時です。

僕の目に見覚えのない男物の靴下が映りました。

とっさに「これ誰の靴下?」

アンは一言「それ、Pぱんのじゃないの?」

あぁ、そういうことか。

そこで浮気に気が付いたのです。

浮気に関しては、アンに言及できませんでした。

この1日で起きた出来事が多すぎて、ショックと衝撃が大きくて、もう話す気になれなかったのです。

そしてその瞬間どうでもよくなって、もうこいつは抱けないな、と思いました。



ちなみにその後、僕はその悔しい思いから、謎に車をキャッシュで一括購入。

浮気をされ、別れを告げられ、ヤケクソになった僕は結婚資金としてこっそり貯金をしていたお金をつぎ込み、車を買いました笑

その車の写メを、アンに送り付けてやりました。

そして、「この車でドライブに行こう」と誘いました。

この期におよんで、ザオラルを狙ったのです。

それほどまでに結局僕は、アンがすごく好きだったんです。

ただ、LINEは未読のままでした笑

こうして、僕とアンの5年間は幕を降ろしたのです。



6、ナンパ開始&サロン入会編

僕は社会人3年目になっていました。

ここから、僕はナンパに目覚めます。

と言いたいところですが、メンヘラ気がしばらく続きます。



そんな折、女友達から「女の傷は、女で癒せ」との格言めいたメッセージももらい、

それまでは、野生のナンパ師のようなことはしていましたが、この時期から本格的にストナンに取り組むようになったのです。

たしかストナンの始まりは、恋愛工学から入りました。

金融日記を読んでいて、初めて読んだ記事が恋愛と動物生態学を結び付けて論じたもので、それが、めちゃくちゃおもしろかったです。

「膣は熱いうちに打て」

など、高校時代の自分の思い出とリンクしましたね。笑



その他には、たくさんのナンパ師のTwitterとブログを読んで学びました。

当時はまだnoteなどは無かったのですが、今の何倍もTwitterに情報が溢れていたのです。

とはいえ、ナンパ初心者です。

当初は表参道で2時間も地蔵したこともあります。。

アナウンサーを目指してる青学生の写真を無駄に撮ってあげて終えたこともあります。笑

ですが、続けているうちに、成果が出るようになってきました。



前述のように、当時はネット上にいい情報が流れていたおかげで、講習も特に受けませんでした。

自分で仕入れた情報をナンパで実践して、ワークするのが非常に楽しく感じていましたね。

ただ即の経験はなく、基本的には準即がメイン。 

と、そんなこんなで、準即の数は積み重ねていくことができていました。



そんなある日、仕事を終え、いったん自宅でダル着に着替えコンビニに出かけた時のことです。

女がふらふらしながら居酒屋から出てくるのを見かけました。

その女を、すかさずナンパして、バーへの連れ込みに成功。

「わたし、人妻だけどいいの?笑」

などと言っていましたが、その時は冗談だと思い、さらっと受け流し、そのまま家へ搬送して即。

結果としてこの案件で、初めての弾丸即を達成しました。

人生初の弾丸即です。



ちなみに冗談だと思っていましたが、その女は本当に人妻でした。

と、そこでなぜか僕は感情がたかぶり、またもや非モテコミットを発揮。

後日、

「既婚だとしても気にしないから、また会おう」

と死ぬほどキモい謎な上から目線のLINEを送りました。

(結局、何も起きませんでしたが。笑)



ただ、この初めての成功体験で、

「自分は即れるのだ」

というセルフイメージを持つことができました。



そして、

「非モテコミットは時間の無駄だな」

と、感じたことを覚えています。



この辺りから、生活の一部にナンパが浸透してきました。

当時の戦績は、週に1~2回出撃して、月に2~3即というものでした。

週に1人はストックできて、その中から7~8割は準即できていた感じです。

そしてそれを2年間続け、即数が100に達するかどうかという程度です。

とはいえ、その頃には正直頭打ちを感じていましたし、正直似たりよったりな可愛さの女の子しか、抱くことができていませんでした。



そんなことを思っていた時、ナンパを始めてから4~5年経った頃に、転機が訪れました。

とある先輩から、急に女性を紹介され、話を聞くと、なにやらその女性は既婚者なのですが「離婚したい」と悩んでいるとのこと。

そして、その人を慰めてあげて(変な意味でなはく)くれ、という依頼でした。

そこで、その人妻とアポを取り付けることに。



アポ当日。

集合場所に姿をあらわしたその人妻は、僕のドストライクでめちゃくちゃ可愛いかったんです。

ナンパデビューをしてから出会った女性のなかでダントツの可愛さでした。

しかし、少女漫画を教科書にしていた僕とはもう違います。

僕は初めてのお散歩デートで、速攻で即りました。

それはそれは嬉しかったですね。笑



ただ、この時に悟ったのです。



ナンパで知り合ったどの案件も自分の感情の臨界点を超えてこない。

自分のナンパの限界はここなんだ。



と。



要するに、今の自分では抱ける層に限界があり、さらに可愛い子を抱くには、何かを変えないといけない。

そう強く思ったのです。

それはこの人妻のように紹介でもいいですし、場所を変えるでもいいですし、とにかく今のままでは何も変わらないと感じました。

そんな時、Twitterでとあるサロンの情報が目に入ってきました。



そこでは、当時の僕のように、もともと、クラブやキャバなどの盛り上がる系が苦手だった人たちなのに、

それでもスト値が高い子を抱いている即報がガンガン上がっていたのです。

そして、僕はこのサロンのTwitterを見た瞬間、ストナンにおいても、自分より明らかに高いレベルのノウハウがあると感じて、このサロンに飛び込んだのです。

ちなみにですが、このサロンはあの某有名なGです。笑

知ってる人もいるとは思いますが、僕はここでナンパの技術を磨きました。

それに関してはブログ記事でもちょろっと話しています。

↑ちなみにこちらのブログでは、割と有益な(自称)ノウハウやらコンテンツを配信しているので、気になる方はぜひご覧になってください。



と、話が逸れてしまいました。

ただ前述の通り、僕のナンパの知識は恋愛工学から入りました。

そのため、当時の僕のナンパはひたすらテクニック重視だったんです。

例えば、”バックトラッキング”や、”ミラーリング”といった技術がいい例です。

それこそ、ゲス不倫で世間を賑わせた、渡〇さんの如くテクニックを駆使していました。



しかしその方向性が、サロンに入ってからは180度変わったのです。

というのもそのサロンの教えは、



女の子をテクニカルに落とすのではなく、人間力を上げて女の子を楽しませる



という考えを元に、ナンパを教えていたからです。

それが、僕にとって、完全にナンパパラダイムシフトでした。



サロンでは

・挨拶からはじまり

・立ち居振る舞いを正し

・テクニックも大事だけど考え方を大事にし

・知識を装着し

・身だしなみも大事にする

という方針をとっていきました。



しかし、その中でも特に、僕がこのサロンで学べてよかったことは「トーク」です。

今では、僕にとっての大きな武器です。

女性を楽しませるための真骨頂の領域になっています。

とは言っているものの、当時の僕もトークがかなり苦手で、どのようにに女の子を仕上げていくのかは、自身の最大の課題でした。

特にわからなかったのは、トークに”オチ”をつけるということです。

なので、そのトークのオチの付け方を学べたのは大きかったですね。

これを身に着けてしまえば、スベったとしても、全体の緩急のなかで布石にできるので、自信を持ってトーク展開ができるのです。

今では、このトーク技術を使い、場を掌握するのはお茶の子さいさいです。



ただ、それは今でこその話、

当時はサロンの講習のはずなのに、「お前と同行したくない」と言われるくらい、全くできせんでした。

同行のフィードバックでは、声がちいさい、つまんない、無口だと、めっっっちゃ言われ、

それで場が盛り上がるはずがなく、卓全体の盛り上げは、最初は全然できなかったです。。

ということで、

「お前にキャバはまだ早い。おもんないから、まずはトーク量を増やせ。」

と言われ、初めての同行で大阪のクラブに連れて行かれたのです。



そこでなんとか即れたものの、過去1で可愛くない案件でした。

なんならストナンで即ってた子の方が、可愛いぐらいです。



学びはあれど、求めてる結果が違う。

「こんなことをするために、サロンに入ったのではない」

「質を下げると、マインドが下がる...」

そう思い、僕は得るもの得たら抜けようと、早々に自分の胸に誓ったのです。



そこから僕はこの修行ともいえる活動にに、さらに精を出すようになりました。

ちょうど、仕事は繁忙期を終えており、サロンの活動にフルコミット。

完全在宅の流れと有給休暇を駆使して、東京と講習先の大阪・名古屋を往復したりストイックに動きました。

 同行でサロンオーナーの振る舞いを間近に見ると、やはり学びは大きく、貪欲に吸収していきました。

また、noteの内容や内省内容から質門を繰り返し、コンテンツやノウハウをを咀嚼していきました。



例えば、

・ファッションの足し算と引き算

・トークにおける加点と減点

・アップデートすべきポイント

・圧倒的な食いつかせ方

・ノンバーバルのスキル

...etc

そして今では僕の武器である、相手を楽しませる価値観を学び取っていきました。



しかし、僕の入っていたサロンは、かの有名なGです。 

サロンオーナーはワンマンの独裁者。

ありえないほどの仕打ちもたくさん受けました。

また、一流のプレイヤーが一流の講師だとは限りません。



例えば、講習生への指摘の仕方は

「違う、バカ、アホなの?死ね」など、暴言のオンパレード。

こんな教え方なので、行間が読めない人や、忍耐力に欠ける人は、このオーナーの元ではやっていけませんでした。

積極的に学ぼうとしても「は?お前には早い。アホなの?」と拒否されることもしばしば。

なので、遠方であろうと声がかかれば秒で返事をし、同行して学びの回数を増やし、実際に背中をみて真似、内省し、検証を繰り返すということを貪欲にやっていました。

あまりにフットワークが軽いので、他のサロン生に会社員だと伝えたら驚かれたのものいい思い出です。



またサロンでは、お金払いが悪いと強制退会させられたり、同行拒否されたりします。

特に酷かったのは、京都遠征の時のこと。

既にスケジュールは決まり、手配も完了している時点でサロンのグループLINEの返信が遅いという理由で退会処分。

なんとかサロンメンバーに口を利いてもらい、同行先に向かうと



集合場所で「君、誰?」と言われたのです。



僕も必死です。

京都踏んだりまで移動して、何も得ずに帰るなんてしたくはありません。

その場で土下座しました。

サロンオーナーからはそこの橋から川に飛べと冗談で言われましたが、本当に飛んでやろうかと思ったくらいです。

最終的に、「おもしろいから許す」と言われ難を逃れましたが、精神的に非常にしんどかったです。

仲間がいなければ、心が折れてたと思います。笑



このように、サロンでは恋愛修行に振り切るために必死で食らいついていました。

しかし、オーナーの自由ぶりは変わらず、自分のペースというものは存在しません。

アフターが確定していても、内省会に呼ばれおじゃんになることもありました。

セパの要員として使われることもしばしば。

あと、人から言われて気づいたのですが、サロンオーナーとのコミュニケーション量を増やした弊害として、口癖が似てきてしまい、めちゃめちゃ口が悪くなった時期もありました。



と、こんな事情もあったので、徐々にサロンとは距離を置くため、またノウハウを体系化するために、講習生仲間と歌舞伎町や港区で活動も始めたんですよね。

オーナーにばれるとまた退会処分なので、ステルス出撃だとか言いながら仲間3人と活動していました笑

そして、遂に一つのマイルストーンをクリアする時が来ました。

それは、サロンでの講習ではなく、仲間たちとステルス活動をしていたときのことでした。

ラウンジ嬢を抱くことができたのです。



その頃から徐々に成果が出せるようになり、トークの面でも成長し、感覚が研ぎ澄まされていく中で、サロンのあり方について違和感が増していきました。

仕事中やデート中においてもLINEを返信しないと罵声の連続。同行にしても、事前に確認した予算を大幅に超えることもしばしば。なによりも入会後に後出しで請求される費用に辟易としていました

そしてついに、オーナーから一通り学び取り、自分のスキルにも手応えを感じて、自分でも納得のできるレベルのラウンジ嬢を即ることができたのです。



そして、2019年の初夏。

「ここがひと区切りだな」と判断し、約半年経ったところでこのサロンのオーナーには筋を通して退会する旨の連絡をしました。

ただの会社員ですが、この半年間やりきったのは普通ではないとは振り返っても思います。 

苦しいことが多かったですが、仲間たちと出会えたことが僕の宝になりました。

この仲間たちと切磋琢磨できなかったら、ここまでスキルを高めることは絶対にできませんでした。

心が折れかけながらも、なんとかやり切ることができたのは、仲間がいたからこそです。

そして、そんな思いが、今の現状に繋がってきます。 



7、現状

そして僕は、今度は仲間に恵まれる素敵なサロンを創りました。

自身の苦しい経験のから醸成された、僕の価値観として



人間関係が円滑で、楽しいことが何より大事だと感じております。

楽しくなければ、それ自体がビハインドになるのです。

楽しくなきゃいけないんです。



地獄のサロン修行期間の中で、当時の僕が欲しかった環境を、仲間たちと創りました。

コロナウイルスの影響でいったん頓挫してしまいましたが、47都道府県に遊び仲間を作り、

「今回は〇〇県のあいつのところに遊びに行こうよ」なんて環境をつくる企画も考えています。

地獄だったとは言え、某サロンでの学びは誤ってなく、サロンにいる人はラウンジ嬢を継続的に即り、また、ラウンジ嬢を彼女にしていたりします。

僕も今では、ラウンジで出会った子と結婚しています。



とはいえ、Twitterではあまり情報発信をしていなかったので、今後はもう少し真面目に発信をしていこうと思います。

僕のノウハウは、普通の会社員でもラウンジ嬢を最小単価で抱けるようなノウハウなので、ラウンジ嬢に興味がある人には非常に役に立つノウハウだと自負しています。

興味があればぜひ、今後も発信を見ていただけたら嬉しいです。

また最後にはなりますが、今回の内容がおもしろいなんて思っていただけましたら、感想などを書いていただけたら嬉しいです。

今後の執筆の励みとなります。

では、今回はこの辺で。

こんなにも長文の文章を、最後まで読んでいただきありがとうございます。

Pぱん


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