5兆ドル企業をつくった経営者は、いつも痛みを先に取りにいく:ジェンスン・ファンの思考の型5選
AI×組織戦略ディレクター
2025年10月、NVIDIAの時価総額は5兆ドルを超えました。世界中の上場企業の中で、最初にこの数字に到達した瞬間です。
同じニュースを見ても、多くの人はただ驚いて終わります。
ただ、ジェンスン・ファン自身が創業を振り返るときに口にしているのは、才能でも運でもありません。「もし創業に伴う苦痛や苦難を事前に認知していたら、おそらく創業しなかっただろう」という言葉です。
彼が30年以上くり返してきたのは、あとで大きくなる痛みを、まだ小さいうちに自分から取りにいくという判断でした。
その型を5つ、あなたの仕事で使える形で渡します。
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第1章:5兆ドルは才能ではなく"考え方のクセ"が生んだ
NVIDIAという会社の30年を、数字で振り返ってみます。
▼ 給料1ヶ月分しかなかった頃
1993年4月5日、ジェンスン・ファンは資本金600ドルの会社を法人化しました。共同創業者2人と合わせて、3人がそれぞれ200ドルずつ出し合った金額です。
1996年には経営危機に陥り、セガから500万ドルの出資を受けてなんとか再建されました。翌1997年8月、看板製品「RIVA 128」を発売した時点で、社内に残っていた資金は従業員給与1ヶ月分だけだったと伝えられています。
その製品が売れなければ、翌月には給料が払えない。
この時点で会社をたたむ理由なら、いくらでもありました。いま5兆ドルと呼ばれている会社の出発点は、そういう場所です。
たたまずに続けた先に、次の30年があります。
▼ そこから5兆ドルまで
1999年に上場し、2007年には「CUDA」という技術に踏み込みます。その代償で、時価総額は何年にもわたって10億ドル前後に沈みました。
潮目が変わったのは2012年です。AI研究者たちがCUDAを見つけたことが、AIブームの起点になりました。
そこからは早い。2024年6月に時価総額3兆ドルを突破し、そこから駆け上がった先が、冒頭の2025年10月です。2026年現在、ファン本人の純資産は推計約2000億ドルとされ、世界で7番目の富豪に数えられています。創業から30年以上、彼は一度も交代することなくCEOを務め続けています。
ここまでの数字だけを見ると、「運が良かった」「時代が味方した」と考えたくなります。でも同じ時代・同じ技術トレンドの中にいた経営者は、他にもたくさんいました。
その中でNVIDIAだけがこの結果にたどり着いた理由は、才能の差ではありません。違っていたのは、判断を下すときの考え方のクセです。
この分かれ道は、どんな職場の中にもあります。部署の予算が余った期末に、「来期に繰り越して安全に使う」と決める課長と、「今のうちに人を育てる研修に突っ込む」と決める課長がいます。数字の上では前者のほうが減点されません。3年後に差がつくのは、たいてい後者のほうだと僕は見ています。
ファンの30年は、後者を選び続けた結果の数字です。
同じ情報を見ても、人によって違う結論に至ります。その差がどこから生まれるのか、5つの型に分けて見ていきます。
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第2章:ジェンスン・ファンの思考を支える5つの型
ジェンスン・ファンの判断を追っていくと、繰り返し出てくる5つの考え方があります。
【思考①】痛みの前払い
大きな利益を得るために、今のうちに損を引き受けておく考え方です。
【思考②】悪い知らせを最速で出す
自分の判断ミスに気づいたら、隠さずすぐ相手に伝える考え方です。
【思考③】手放す基準を持つ
どれだけ市場が大きくても、勝てないと判断したら執着せず撤退する考え方です。
【思考④】情報を薄めない
立場や役職に関係なく、全員に同じ情報を同時に渡す考え方です。
【思考⑤】安全な前提を自分から外す
「今は大丈夫」という油断を、自分から壊しにいく考え方です。
5つとも並べてみると、共通しているのは"待たない"という姿勢です。問題が大きくなってから対処するのではなく、まだ小さいうちに自分から向き合いにいきます。
「あとで大きくなる痛みを、まだ小さいうちに自分から取りにいく」。
これが、5つすべてに通じる軸だと僕は見ています。そして、どれも経営者だけの特殊技能ではありません。
実際、部下を持つ立場なら、5つのどれかを使う場面はそう遠くないところにあります。言いにくい報告、やめられない案件、届かない現場の声。呼び方が違うだけで、扱っているのは同じ痛みです。
次の章から、それぞれの型を実例と一緒に見ていきます。

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第3章:思考① 痛みの前払い
「痛みの前払い」とは、あとで大きな利益を得るために、今のうちに損を引き受けておく考え方です。得だとわかっていることを先延ばしにせず、コストがかかる段階でわざと踏み込みます。
▼ ファンはどう使ったか
ファンがこの考え方を最もはっきり使ったのが、2007年に発表した「CUDA」という技術への投資です。CUDAはNVIDIAのGPUを、画像処理だけでなく汎用的な計算に使えるようにする仕組みでした。ただしこの技術が広まるには、開発者のコミュニティと、それを使えるハードウェアの両方が世の中に出回っている必要がありました。
そこでファンは、ゲーム用GPU「GeForce」の全製品にCUDAを搭載するという判断をします。コストをかけてでも、使える環境を先に作ってしまう戦略です。
第1章で触れた数年間の停滞は、この判断の代金です。払うと決めた側は、そのあいだ何も回収できません。回収できるかどうかも、その時点では誰にも分かりません。
2012年にAI研究者たちがCUDAを見つけ出したとき、彼らが使えるハードウェアはすでに世界中に行き渡っていました。先に代金を払っておいたから、需要が来た瞬間に受け取る側に立てた。
それだけの順番です。
▼ なぜこれが効くのか
多くの人や会社は、儲かる見込みが立ってから動こうとします。でもその時にはもう、環境も競合もできあがっています。
準備は、需要より先にしか終わらせられない。痛みの前払いが効く理由は、この順番が動かせないことに尽きます。
◆ あなたの職場に置き換える
この型は、経営判断だけのものではありません。たとえば、あなたのチームが顧客40社の情報を、10年前から使っているExcelで管理しているとします。
今のところ月末の集計に2時間かかるだけで、誰も文句は言いません。ただ、来期に担当社数が3倍になることは、もう決まっている。
同じやり方のまま迎えれば、月末の集計は丸2日に膨らみ、毎月誰か1人がその作業に潰れます。そして忙しい時期に移行しようとすれば、今の3倍の手間がかかります。
移行の痛みは、待てば待つほど値上がりする。
だから、まだ2時間で済んでいる今のうちに、多少の反発を引き受けて移してしまう。移行の着手日をカレンダーに入れるのに、かかる時間は30秒です。
その30秒を今日使うか、来期に3日を使うか。前払いというのは、それだけの話です。
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第4章:思考② 悪い知らせを最速で出す
判断ミスに気づいた瞬間、多くの人がまず考えるのは「どう取り繕うか」です。ファンが動かしたのは、逆の方向でした。
自分の選択が間違っていたと分かった時点で、隠さずそのまま相手に渡す。これが「悪い知らせを最速で出す」という型です。
都合の悪い事実ほど、早く出すほど傷が浅く済みます。
▼ ファンはどう使ったか
1990年代半ば、NVIDIAはセガとゲーム機開発の契約を結んでいました。ところが契約から1年ほど経った頃、NVIDIAが採用していた技術の方向性が、業界標準になりつつあった別の方式とずれていることにファン自身が気づきます。
普通なら、なんとか誤魔化しながら契約を完遂しようとするところです。しかしファンはセガのCEOに直接連絡し、「自分たちが選んだ技術の方向性が間違っていたこと」「このままでは契約を完遂できないこと」を正直に伝えました。
本人はのちに、そのときの相手の反応をこう振り返っています。
「彼は私の話を理解し、そして驚くべきことに、『わかった』と言ってくれたのです」
セガの理解と寛容によって、NVIDIAは契約を打ち切りながらも猶予を得ることができました。1996年にはNVIDIA自体が経営危機に陥り、セガから500万ドルの出資を受けてなんとか持ちこたえます。その猶予のあいだに、正しい方式に基づく新製品「RIVA 128」を作り上げ、1997年8月の発売にこぎつけました。
言いにくい一本の電話が、会社の寿命を延ばしたことになります。
▼ なぜこれが効くのか
悪い知らせを隠すと、相手はいずれ別のルートでそれを知ります。その時には「隠されていた」という不信感が上乗せされ、失う信頼はさらに大きくなります。
逆に、悪い知らせを最速で出せば、相手はまだ選択肢を持った状態でこちらの話を聞けます。正直に伝えるという行為そのものが、相手に「まだ一緒にやれる」と判断させる材料になります。
◆ あなたの職場に置き換える
たとえば、担当している案件が、当初の進め方では納期に2週間間に合わないという状況を思い浮かべてください。この状況で多くの人が最初に考えるのは、「どこかで詰められないか」です。
ただ、今日それを伝えれば、取引先は前後の工程を組み替えて吸収できます。3週間寝かせてから伝えれば、吸収できるのはおそらく自社の休日出勤くらいになります。
同じ2週間の遅れが、伝えるタイミング次第で「調整」にも「事故」にも変わる。
多くの中間管理職は、ぎりぎりまで報告を先延ばしにして、なんとか帳尻を合わせようとします。ファンのやり方は逆でした。
気づいた瞬間に、上司や取引先へ「進め方の判断が間違っていました」と自分から伝える。そのうえで、代わりにどうするかという案まで一緒に持っていきます。
報告を先延ばしにしている案件が1つでも頭に浮かんだなら、今日の退勤前に上司の席まで行ってください。黙っているあいだも、相手が打てる手は減り続けています。こちらが迷っている時間は、相手から選択肢を取り上げている時間でもあります。
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第5章:思考③ 手放す基準を持つ
目の前に、とてつもなく大きな市場がある。ただし、そこで勝てる見込みは薄い。あなたなら、続けますか。ファンはこの問いに、市場そのものを手放すという答えを出しました。
「手放す基準を持つ」というのは、判断の物差しを「市場の大きさ」から「勝てるかどうか」に付け替えることです。
▼ ファンはどう使ったか
2010年前後、NVIDIAはスマートフォン向けの半導体市場に参入しました。初期にはある程度の成功を収めましたが、すぐに競合がひしめく状況になります。
ファンはのちにこの市場について、こう振り返っています。
「スマートフォンの市場は、とてつもなく大きなマーケットです。本気でシェア争いをしようと思えばできたかもしれません。しかし私たちは、あえて別の決断をしました。市場そのものを手放す、という決断です」
巨大な市場を自分から手放すというのは、多くの会社にとって簡単な判断ではありません。しかしNVIDIAはこの撤退で生まれた余力を、ロボティクスや自動車という別の分野に振り向けました。
ファン自身、その結果をこう語っています。
「こうして私たちはロボティクス市場に参入し、今では自動車とロボティクスの事業だけで、すでに数十億ドル規模のビジネスへと育っています」
▼ なぜこれが効くのか
勝てない市場に居座り続けると、そこに使う時間・人・お金が、勝てるはずの別の市場に回らなくなります。「大きい市場だから」という理由だけで居続けることが、実は一番大きな機会損失になる場合があります。
その機会損失は、「撤退します」と言う一瞬の気まずさを先に払わなかった代金です。一言の痛みを避けた分だけ、請求書は後から大きくなって届きます。
基準が「大きさ」のままだと、撤退はいつまでも「もったいない」という感情の話になります。「勝てるかどうか」に付け替えた瞬間に、それは計算の話に変わる。
◆ あなたの職場に置き換える
では、勝ち目が薄いと薄々わかっている仕事を、あなたは今いくつ抱えているでしょうか。多くの中間管理職は、「大きな案件だから」「昔から続けているプロジェクトだから」という理由だけで、その仕事にチームの時間を注ぎ続けます。
毎年3人がかりで回しているのに利益はほぼ横ばい、という案件をあなたのチームが5年続けているとします。その3人が空けば、去年から「やりたい」と言われていた新しい取り組みが動き出します。
このまま放置すれば、来年もその3人は同じ場所に張り付いたままです。5年が6年になるだけで、判断は何ひとつ前に進みません。
必要なのは「頑張って続ける方法」を探すことではありません。「この案件から手を引いたら、その3人で何ができるか」を先に計算することです。
計算が済んでしまえば、次の打ち合わせで言うことは1行で足ります。「これ、やめる前提で一度考えませんか」。
手放す判断は、誰かが最初に口に出さないかぎり永久に始まりません。
その1行を、あなたは今週の定例で言えるでしょうか。
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第6章:思考④ 情報を薄めない
部長が知っていることを、課長は半分しか知らない。課長が知っていることを、現場は3割しか知らない。どこの会社にもある光景です。
ファンはこの目減りを、伝え方の工夫ではなく構造ごと潰しにいきました。「情報を薄めない」。立場や役職に関係なく、全員に同じものを同時に渡すやり方です。
▼ ファンはどう使ったか
ファンには2024年時点で、55〜60名ほどの直属の部下がいると言われています。一般的な経営者と比べて、かなり多い人数です。
普通ならここまで人数が多いと、1対1のミーティングを重ねて情報を伝えるのが定石です。しかしファンは、スタンフォード大学での講演で「私は誰とも1対1のミーティングをしない」と語っています。
その理由について、「1〜2人だけが知るべき情報などない」という考え方を挙げ、全員が同じ情報に同時にアクセスできる状態を重視しているとされています。自身の経営スタイルを「extreme co-design(極端な共同設計)」と呼び、「問題を提示し、全員で同時に攻略する」というスタイルを取っていると語っています。
さらにファンは、全社員が「今週気づいたこと・やったこと・学んだこと」トップ5をまとめて送る仕組みを使い、現場の生の情報を自分自身で直接吸い上げていると伝えられています。フォーマルな報告書は、階層を経るほど情報が薄まってしまうため、あまり信用していないとも言われています。
▼ なぜこれが効くのか
情報が一部の人にしか届かないと、その人たちの解釈というフィルターを一度通ってから、残りの人に伝わります。フィルターを通るたびに、細部が削られ、都合の悪い部分ほど丸められていきます。ファンがやっているのは、このフィルターの精度を上げることではありません。
フィルターを置く場所そのものを、組織から消している。
そしてこのやり方には、もう一つの効き目があります。全員に同時に同じものを渡すというのは、都合の悪い情報を一部に留めておくという逃げ道を、自分から塞ぐ行為です。
伝えるときの気まずさをその場で払ってしまい、あとで爆発する形の痛みを持たないようにする。構造としては、痛みの前払いとまったく同じことをしています。
◆ あなたの職場に置き換える
現場では、週に3件ほど小さなクレームが起きている、という職場は少なくありません。それが係長のところで「よくある話」に丸められ、課長のところで「特に問題ありません」に変わる。
部長であるあなたの耳に届く頃には、件数という一番大事な部分が消えています。半年後、その3件が20件に育ってから、初めてあなたの案件として上がってくる。そのときには、もう小さく処理する選択肢は残っていません。
階層を飛ばして現場から直接聞く場を持つというのは、この痛みを小さいうちに引き取っておく仕組みです。来週、課長を通さずに現場のメンバーと直接話す時間を取る。聞くことは「今、一番言いにくいことは何ですか」の1つで足ります。
3件のうちに知るか、20件に育ってから知るか。同じ問題でも、その2つはもう別の仕事です。
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第7章:思考⑤ 安全な前提を自分から外す
業績が安定すると、組織は無意識に警戒を緩めます。ファンが選んだのは、その逆でした。
うまくいっている時期にこそ、「今は大丈夫」という前提を自分の手で壊しにいく。それが「安全な前提を自分から外す」という型です。
▼ ファンはどう使ったか
ファンは従業員向けのプレゼンテーションの冒頭で、「わが社は倒産まであと30日」と語ることを長年続けていると伝えられています。実際には会社は何十年も存続し、時価総額は5兆ドルを超えるまでに成長しました。
それでもファンは、経営が安定して見える局面でもこの言葉を使い続けています。創業以来の"生存者意識"を、組織全体に浸透させる装置として機能させているとされています。
▼ なぜこれが効くのか
人も組織も、「今は大丈夫」という前提を一度持ってしまうと、そこから外れる情報を無意識に軽視するようになります。安全だという前提そのものを自分から壊しておけば、小さな異常のサインを見逃しにくくなります。
危機感は、追い詰められてから持つものではなく、余裕があるうちに自分で持ちにいくものです。
順調なときにわざわざ不安になりにいくのは、それ自体が小さな痛みです。ただ、その痛みを先に引き受けておかないと、本当の危機が来たときには間に合いません。
◆ あなたの職場に置き換える
3四半期続けて目標を達成しているチームがあるとします。会議では誰も課題を出さなくなり、議題は報告だけで終わるようになりました。
一見、理想的なチームです。ただ、この状態のチームは、主力メンバーが1人抜けた瞬間に何が起きるかを誰も計算していません。
僕がこれまで見てきた範囲では、好調な時期に崩れていくチームほど、崩れる直前まで会議で悪い話が出ていなかったケースが目立ちます。うまくいっている時期の沈黙は、安心ではなく点検の不足です。
次の定例に、議題を1つ足す。「今のやり方が3ヶ月後に通用しなくなるとしたら、原因はどれか」。そしてこの議題は、うまくいっている時期ほど削りたくなります。
外したくなった月こそ、外してはいけない月です。
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第8章:ジェンスン・ファン流・思考の小技
ここまでの5つの型に加えて、ファンの言動には、すぐ真似できる小さな習慣もいくつかあります。どれも、痛みを先に取りにいくための下ごしらえです。
【小技1】自分への期待値を低く置く
ファンはスタンフォード大学の卒業スピーチで「私の(自分に対する)期待値はかなり低い」と語っています。自分を高く見積もっている人ほど、自分の判断ミスを認めるのが痛くなります。その痛さが、報告や撤退を先送りさせる本当の理由です。
期待値を下げておくと、「間違えました」の一言が軽くなる。あなたが提案した企画の数字が初月から未達だったとき、「自分の読みが甘かった」と言えるかどうかは、能力ではなく自己期待の高さで決まります。
【小技2】決まった執務室を持たない
ファンは本社内を自由に動き回るスタイルを取っているとされ、比較的フラットな管理体制を維持しています。自席にいる人には、良い報告ばかりが届きやすいものです。悪い報告ほど、わざわざ足を運んで伝えるだけの覚悟を相手に要求するからです。
たとえば、週に2回、午後の30分だけ自席を離れて現場の島に座ってみてください。隣で交わされる雑談の中に、報告書には絶対に書かれない兆候が混ざっています。
【小技3】ここぞという場面で最優先を切り替える
ファンは定例の1対1を持たない一方で、本当に必要としている社員に対しては「全てを後回しにしてでも会う」と述べているとされています。普段はフラットに構えておいて、必要な場面だけ全部を止める。
予定を平らにしておくのは、いざというときに動かせる余白を残しておくためでもあります。予定を埋め尽くしている人は、部下が「少しいいですか」と言ってきた瞬間に、それを来週へ回すしかありません。回された相談は、来週には持ち込まれなくなります。
【小技4】苦しみを歓迎する語彙を持つ
ファンはスタンフォード大学のスピーチで「君たちにたくさんの苦悩あれ」と述べ、「今でも仕事における苦悩や挫折は喜ぶべき事だって、心から思っている」と語っています。良い社風は「苦労したスタッフから生まれる」とも述べており、苦しい状況そのものを否定的な言葉で語らないようにしています。
痛みを自分から取りにいく組織には、痛みを悪者にしない言葉づかいが要ります。
たとえば、あなたのチームでプロジェクトが難航しているとき、「またトラブルか」と言うか「これは鍛えられる場面だ」と言うかで、次に問題を持ってくる人の数が変わります。
4つとも、今日の会話の中で1つずつ試せる小さな習慣です。
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第9章:今日の悩みに1つ当てはめてみる
最後に、よくある悩みに当てはめてみます。想定するのは、3ヶ月前に異動してきたばかりの管理職です。
数字は悪くありません。前任者から引き継いだ指標はすべて計画どおりで、部下からの報告も「順調です」で揃っています。
それなのに、落ち着かない。着任してから今日まで、悪い情報が一度も上がってきていないからです。
新任という立場は、ここで二重に不利になります。前の部署とのやり方の違いが「この部署の流儀」なのか「見過ごされている異常」なのか、判断する土地勘がない。部下の側にも、着任早々の上司に問題を持ち込んで印象を悪くしたくない、という計算が働きます。
▼ まず、前提を外す
ここで効くのが、思考⑤の安全な前提を自分から外すという型です。第7章で見た「あと30日」の使い方は、順調に見える状態をそのまま信じないための仕掛けでした。
この管理職が最初に外すべき前提も、「悪い報告がない=問題がない」という等式です。報告がないことには、説明が2つ付きます。本当に問題がないか、問題があっても言われていないか。着任3ヶ月目なら、どちらである可能性が高いか、想像はつくはずです。
しかも新任の管理職は、前任者のやり方をまだ評価できる立場にありません。「順調です」と言われれば、そう受け取るしかない。
前提を疑うのを先送りにするほど、引き継いだ数字は自分の実績として身体に貼りついていきます。半年もすれば、問題を見つけること自体が自分の否定になる。
外すなら、まだ他人の数字でいるうちです。
▼ 次に、情報を薄めない
前提を外したら、次は思考④の情報を薄めないの出番です。第6章で見た、情報を絞らずに全員へ同時に渡すやり方が、ここでそのまま使えます。
着任してから自分が決めたことと、その理由を、課長にも現場にも同じ日に同じ言葉で伝える。先に手の内を開いた上司にこそ、部下も手の内を開きやすくなります。順番を逆にして「まず報告を上げてこい」と待つかぎり、新任の3ヶ月は永久に終わりません。
そのうえで聞く言葉は、「問題はありますか」ではありません。「この部署に来て、まだ理解できていないことを教えてほしい」と聞く。
前者は部下に告発を求める質問で、後者は上司の無知を埋める協力の依頼です。同じ場で同じ相手に聞いても、返ってくる量がまるで違います。
もちろん、自分が分かっていないと部下の前で認めるのは気持ちのいい作業ではありません。ただ、その気まずさは着任3ヶ月目なら「新任だから」で済みます。
小さいうちに自分から取りにいけば、この痛みは「教えてください」の一言で終わる。先送りすれば、まったく同じ問いが1年後に「なぜ気づかなかったのか」という形で返ってきます。
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まとめ
ここまで5つの思考の型を見てきました。
【思考①】痛みの前払い
将来の利益のために今の損を引き受けること。
【思考②】悪い知らせを最速で出す
自分のミスに気づいた瞬間にすぐ伝えること。
【思考③】手放す基準を持つ
勝てない場所への執着を断つこと。
【思考④】情報を薄めない
階層というフィルターを外して全員に同じ情報を渡すこと。
【思考⑤】安全な前提を自分から外す
うまくいっている時期にこそ危機感を持ちに行くこと。
5つとも、表現は違いますが、根っこにある考え方は同じです。
「あとで大きくなる痛みを、まだ小さいうちに自分から取りにいく」。
ジェンスン・ファンの30年以上の判断は、この一点に集約されると僕は思っています。才能や運の差ではなく、痛みをいつ引き受けるかという選び方の差です。
痛みは、放っておいても消えません。利子が付いて、いつか必ず請求されます。
たった今、あなたの頭に浮かんだその1件が、いちばん安く買える痛みです。
