ナンパなんて、テクニックでもなければ、マインドでもない。という話。
イブ
タイトルについて簡単に説明しておくと、よく『ナンパ必勝法』だとか、それに類する記事がバカ高い値段で売れられているな、と。
あと、それに乗じて『今までにナンパ教材を買って失敗した方向け』とか、もっと極端な例だと、『ナンパ100回された女側から意見するナンパ必勝法』だとか、そういうのも、性の搾取の構造なので、全部ゴミ。
(そもそも扇情的な画像を記事の最初に載せたりして、品がないというか、新自由主義的というか……何はともあれ、それにノセられて買う側も買う側だけど…………)。
ただ、俺の周りで、いわゆる高学歴非モテ男子的な人が多いのも事実で、たまにLINEで相談されたりもする。
そういうこともあり、これは俺が今までやってきた「健全なナンパ」を記事にしておいた方がいいな、と思って、この文章を書き始めた。
まあ、かったるい前説はここまでとして、本題に入ろう。
そもそも健全なナンパとは何か
端的に言って、俺が言う「ナンパ」は、ナンパではない。
ナンパというと、一般的に女性(あるいは男性でも)に声を掛け、お茶なり――ホテルなりに行く手段として使われる。ともすればその手段は、現代を生きる我々が日常的にしなくなった行為なだけで、すこし時代を遡れば人間はそうやって言語や身振りを用い、行ってきたのである。
要するに、見知らぬ誰かに声を掛ける。まずはそれだけの行為なのだ。
その先で、ホテルに行くことを最大の目的としてしまうから“失敗”したと感じてしまうわけだが、本来、失敗もくそもない。ただ異種交流すればいい。
見知らぬ他者とのコミュニケーションそれ自体を楽しめば、その後でホテルに行くこともあれば、そうでないこともあるし、そのまま友人になることもある。当然連絡先を交換した後、後日また会ってその日にホテルに行くこともある。もちろんブロックされることもある。
もし声を掛け、相手が話してくれなかったら、それはナンパが起きていないのである。
つまり結論はこうだ。
いわゆる「ナンパ」と思われたら、既にナンパは成立していない。故にナンパはただ見知らぬ人間と、コミュニケーションをとることである。
では、どうしたらコミュニケーションが生み出せるのか。
~場所。あるいは相手の精神について~
まずはナンパ(便宜上ここからもナンパと言うことにする)をする場所について(いきなり具体的になったな……)。
結論から言うと、場所なんてどこでもいい。だが、どこでもいいとはいえ、ストリートナンパは避けた方がいい。なぜなら、たとえばあなたが道を歩いていて、いきなり声を掛けられたら、どんな精神状態であれ、ウザいはずだ。それが答えで、結局誰でも、道を歩いていて、いきなり“なんの前触れもなく”声を掛けられたらウザいし、鬱陶しいし、警戒するし、相手になどしたくないのである。
そんな面倒でハードルの高い行為は避けるとして、では、どこでナンパすれば効率がいいのか?
まず、一部の下品な人間には残念に聞こえるかもしれないが、その日のうちにホテルに行こうとすることは諦めた方がいい。そういう人は、そもそもの「効率」という卑小な思考から脱却する必要がある。
話を戻すと、場所。どこでもいいとは言ったが、喫煙所なら、喫煙所なりの話の導入があるし、美術館なら美術館なりの声の掛け方がある。
そして、「きょう絶対にこの子を抱くんだ!」みたいな性欲でしか物事を考えられない心を克己した上で、肩の力を抜いて、声を掛ければ、それだけで拒絶されることはない。
では、実際に俺がよくやっていた具体的な、場所に合った声の掛け方をいくつか紹介しておく。
喫煙所なら、「火貸してくれませんか?」とかでいい。まずもってライターを貸してくれない人などいないに等しい(マジでライターなくておじさんに貸してもらおうとしたら「いやぁ」とかなんとか言われて貸してもらえなかったことが一度だけあるが……)。その後は「最近禁煙したんですけど、やっぱ厳しいですね……」とか言って、話を繫げて、「だからライター持ってなくて」とか言ったり、「普段何吸われてるんですか?」とか、てきとうに質問すればいい。流れで「じゃあお仕事場とかだと、喫煙スペース近くにあったり?」とか、「じゃあそこらへんでおすすめのお店あったりします?」とか、質問すればいい。特に気にしなければならないのは、質問しているように勘ぐられないほどに抑える。要は、これは“雑談”だと認識させておく。それが何よりも大切だ、ということである。
美術館であれば作品を見ている人に声を掛けるとして、その作品について詳しければうんちくにならない程度に説明してみたらいい。反対に何もその作品について知らないのであれば、「この作品って何々なんですか?」とか訊いてみればいい。
難易度の高い場所さえ選ばなければ、どんな「導入」もできるし、そこ(どこ)からどんな会話でも広げられるし、どんな相手ともコミュニケーションをとることもできる。
とはいえ、“慣れ”ていないからできない。というふうに考える人もいるかもしれないが、先述したように、「失敗」がそもそも存在せず、「肩の力」さえ抜けば、誰でもできることなのである。全然難しく考える必要はないし、何かの話題ができる知識が必要なわけでもない(俺は結構教養主義的な人間だから知識があることに越したことはないとは思うが……)。
雑談それ自体を楽しむ。これが最も重要なことであり、最も簡単なことでもある。
今すぐにでもできるのだから、やればいい。ただそれだけだ。
{個人的な話をすると、中学生の頃、ボイスレコーダーを持ち歩いて、家に帰ってきてから、紙に、会話がどのように広がっていったかの流れを図解化し、書き起こしていたことがある。残念ながら、そこまでしても、他者の思考形態に一貫したものは見えてこなかった。ある程度の予想はつくが、その都度その都度、同じ趣旨の質問を投げかけても、まったく違う答えや反応が返ってくる。同じ人間にもかかわらず(これはヘーゲルの精神現象学的に捉えてもらっても構わないし、ないしは弁証法的に捉えてもらっても構わない。が、今の俺が考えるに、ジャック・ラカンの言うところの、神経症者的過ぎるだけだな、と思う)。まあ、おすすめしないし、時間の無駄なので、これはやめておいた方がいい、とだけ言っておく}。
拒絶されたと思わない心構え
ここまで書いてきたことは、物事が起こる前と、渦中についてが多かったので、ここからは、“その後”について書いておこうと思う。
その後とは、自分の精神についてである。
当然他者がいてこそのナンパなので、全然話してくれないことは、往々にしてある。
でも、普遍的(ないしは相対的)に考えてみればわかることだが、会話が成立しないことなんて当たり前なのである(俺はドゥルーズの言う「同一性」はなく、デリダの言う「同じもの性」はあるのではないか、と考えているので)。
デリダはここで、記号の同一性の不可能性を言っているのではない、ということに注意をしておこう。デリダの言いたいのは、同一性の確保のためには「反復可能性」が必須であり、それゆえ、同一性の確保のためには同じ記号のあいだに差異が認められねばならない、と言っているのである。しかし、差異がある以上、それはまったき「同一性」ではないだろう。デリダはこのことを説明するために「同一性」に代えて「同じもの性〔mêmeté〕」という語を利用する(Derrida [1990:49 =2002:50])。https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/402/402100005.pdf
とまあ、晦渋な引用は措いておくとして、まずもって言語を扱う――などと説明するまでもなく、人間はみな違う個体なので、考えが一致することの方が稀で、なんなら考えが一致すること自体がない。一致した。その感覚は錯覚である。でも、その錯覚が重要なのだ。会話の中、身振りの中で何度その錯覚を起こせるか、が、コミュニケーションの肝。一瞬でもいいので、「今同じこと考えていた」とか、「今お互いが楽しい」とか、そういう感情を起こさせたらいいのだ。
そういう感情の交換や、錯覚が一切起きないコミュニケーション(ナンパ)も多々あるが、何度もその開かない扉を開こうとしたことだけは今後のナンパ――いや、今後の人生で役に立つのは、今更言うまでもなく、自明なのだ。
開かなければ、引いてみる。一歩だけ引いてみるとか、そういうこともまた、大きな学びになるだろうし(これは違うレイヤーのテクニックとして、またの機会に記事にしようと思う)。