「シンガポールに住んでいるなら、お子さんたち英語問題ないでしょ」
「うちの子は新しい言語にすごく柔軟」
よく言われる言葉ですし、実際そう感じる場面もたくさんあります。でも、同じように海外に住み、同じように学校に通っていても、何年経っても「使える英語」にならない人がいるのも事実です。そして子どもの柔軟さも、実は無条件のものではありません。
私自身、23歳から25歳までアメリカに留学し、大学でティーチングアシスタントとして働きながら、大学院で第二言語習得を学びました。その後シンガポールに渡り、シンガポール国立大学(NUS)で日本語を教え、インターナショナルスクール、そして某日系幼稚園でも教育現場で働いてきました。今は自分の子供達を、日本語・英語・中国語のトライリンガル環境で育てています。
その中で見えてきたのは、「環境に身を置くこと」と「言語が機能するようになること」はイコールではないこと。そして子供と大人とでは、そもそも言語が脳に入っていくルートそのものが違うということです。今日は、この2つを1つの枠組みとして整理してお伝えします。
💡土台となる2つの理論
①「習得(Acquisition)」と「学習(Learning)」は別物である。(Krashen クラッシェン)
第二言語習得研究者のスティーブン・クラッシェンは、言語が身につくプロセスを、明確に2種類に分けました。
「習得」は、赤ちゃんが母語を身につけていくのと同じ、無意識のプロセスです。文法規則を教えられるのではなく、実際のコミュニケーションの中で意味のあるやりとりに触れることを通じて、自然と体に染み込んでいきます。
一方「学習」は、意識的なプロセスです。文法規則を教わり、単語を覚え、「なぜこの形になるのか」を頭で理解していく。学校の英語の授業は、基本的にこちらにあたります。
この2つは別々の場所に蓄積される、質的に異なる知識だとされています。「学習」で得た知識は、自分の発言をあとからチェックする「モニター」としては機能しますが、とっさに口から出てくる自然な言語運用そのものを支えているのは、あくまで「習得」の方です。文法問題は解けるのに、会話になると言葉が出てこない….という状態は、まさに「学習」はあっても「習得」が足りていない状態だと説明できます。
②「習得」の環境があっても、発信しなければ機能しない(Swain スウェイン)
では、「習得」の環境にさえ身を置けば十分なのか。ここに反証を示したのが、カナダの研究者メリル・スウェインです。
クラッシェンのインプット仮説は「理解できるインプットを十分に与え続ければ、言語は自然に習得される」というものでした。しかしスウェインは、カナダのイマージョン教育(英語を母語とする子どもをフランス語で教育するプログラム)に通う子どもたちを長期調査し、何年もフランス語にどっぷり浸かり、質の高いインプットを大量に受け続けていたにもかかわらず、文法能力が期待ほど伸びていなかった事実を見つけます。
そこから導き出されたのが「アウトプット仮説」です。
理解できるインプットは必要だが、それだけでは不十分であり、自分の言葉で発信する経験こそが言語能力の完成に欠かせないという考え方です。インプット(聞く・読む)は「分かったつもり」でごまかせますが、アウトプット(話す・書く)はごまかせません。
話した瞬間・書いた瞬間に、自分の知識のどこが足りないかを突きつけられる….。この気づきが、言語を本当に使えるものに変えていきます。
つまり、「習得」ルートに乗るためには、単に環境に浸かるだけでなく「発信せざるを得ない状況」が必要だということです。この2つの理論は、対立するものではなく、補い合う関係にあります。クラッシェンが「どこに知識が蓄積されるか」を説明し、スウェインが「その蓄積のルートに乗るために何が必要か」を説明している、と捉えると分かりやすいと思います。
なぜ子どもは自然に「習得」モードに入れるのか?
ではなぜ、子どもはこの「習得」のプロセスに、大人よりもずっとスムーズに入っていけるのでしょうか….。
① 分析するための「ものさし」をまだ持っていない
大人はすでに母語という完成された文法体系を持っているため、新しい言語に触れると無意識に比較・分析してしまいます。この分析こそが「学習」のプロセスであり、意味のあるやりとりに没入する「習得」の妨げになることがあります。子供は、この「ものさし」がまだ発達途上の為、比較を挟まず、耳から入った言葉をそのまま意味と結びつけて吸収できます。
② 音を聞き分ける力が、まだ閉じていない
赤ちゃんは生後半年〜1年ほどの間に、母語で使われている音だけを残し、それ以外の音を聞き分ける力を手放していきます(知覚的絞り込み)。この絞り込みが進みきっていない子供は、大人であればもう聞き分けられない微妙な音の違いにも敏感に反応できます。
③ 「間違えること」への抵抗が、まだ小さい
クラッシェンの「情意フィルター仮説」によれば、不安や恥ずかしさといったマイナスの感情は、フィルターのようにインプットの吸収を妨げます。大人は間違いへの抵抗が強くこのフィルターが厚くなりがちですが、子どもはこのフィルターが薄く、間違いを気にせず口に出せる。これが結果としてアウトプットの量を増やし、習得を加速させます。
大切なのは、クラッシェンは「大人は学習しかできない」とは言っていないという点です。大人であっても条件が整えば「習得」に入れます。ただし、大人は放っておくと自然と「学習」モードに寄っていきやすい。だからこそ、大人が本当に使える言語を身につけたいなら、意識的に「習得」に近い状況——つまりスウェインの言う「発信せざるを得ない状況」——を自分で作り出す必要があるという結論に至ります!
💡共通する結論:うまくいく人には何があったのか
上記でご紹介した理論をまとめると、環境をきちんと言語力に変換できていた人たちには、共通して次のようなことが起きていました。
・「使わなければ困る」場面を、自ら、あるいは環境によって持っていた。
・インプットとアウトプットの両輪が回っていた。
・失敗しても許される安全な場を持っていた。
・目的が「試験のため」ではなく「その人と繋がるため」だった。
ここから先は、私自身のアメリカでの経験や、教育現場、自分の子育てで実際に体験してきた事をもとに、この理論がどう機能していたのかを具体的にお伝えし、『使える言語』へのヒントとなれば光栄です。
私自身の経験:アメリカで「学習」から「習得」へ移った瞬間
23歳でアメリカに渡ったとき、最初の数ヶ月は、見事に日本人コミュニティにどっぷり浸かっていました。渡航先が西海岸の大都市ということもあり、周りには日本人の友人がいて、生活のほとんどが日本語で完結してしまう…。英語という環境は物理的にそこにあるのに、発信せざるを得ない必然性がまったくない状態でした(笑)。
さらに皮肉だったのは、当時私はティーチングアシスタントとして日本語のクラスを教えていたのですが、日本語を学びに来ている学生さんたちが、休み時間になると気を遣ってか、私に日本語で話しかけてくれることが多かった事です。本来なら英語で発信する機会になり得た場面すら、日本語で埋まってしまっていました。当然、その先半年間、英語力はほとんど伸びませんでした。文法は「学習」として頭には入っていても、とっさに使える「習得」された知識には、まったく変換されていなかったのです。
私の英語が本当の意味で「使える」ものに変わったのは、日本人コミュニティの外に出て、さまざまな国から来た方々の英語に触れ、そして自分から話しかけるようになってからです。アメリカともなると、実にキャンパス内も多国籍で、国や言語ごとの英語のアクセントにも若干の違いがあり、その多国籍な英語が当時、とても興味深く、恐れていたはずの英語でのコミュニケーションが楽しくなっていったのを覚えています。誰も日本語を知らない、共通言語は英語しかない。伝えたいことがあるなら、自分から声をかけ、拙くても発信するしかない。この「発信せざるを得ない状況」に自分の意思で踏み出したときから、ようやく英語が生きた道具として動き始めたのを、今でもはっきり覚えています。理論的に振り返ると、まさにあの瞬間、私は「学習」から「習得」へのルートに乗り換えたのだと思います。
📌NUSでの経験:「習得」がベースにない「学習」は、会話力がなかなか身につかない…
シンガポールに来てからも、同じ構造を、今度は教える側として何度も目にしました。
NUSで日本語を教えていたとき、学生たちは典型的な「学習」モードで日本語に向き合っていました。文法を理解し、単語を覚え、テストで正確にアウトプットする。優秀な学生ほど、文法の理解は驚くほど早く、テストの点数も高い。
けれど、いざ実際の会話になった途端に、言葉に詰まってしまう学生が少なくありませんでした。「〜ます」の活用は完璧に説明できるのに、目の前で話しかけられると、とっさに口から出てこない。「学習」された知識と、とっさに使える「習得」された知識が、別の場所に格納されている証拠だと感じていました。
伸びが早かった学生に共通していたのは、文法の正確さよりも先に「とにかく使ってみる」機会を自分から作っていたことです。自発的にダイアログを練習する、日本人の友人を作る、日本語のドラマを字幕なしで見る、間違いを気にせず先生や友人に話しかける。「学習」した知識を、意味のあるやりとりの中で実際に使うことで、初めてそれが「習得」された知識へと橋渡しされていく。この橋渡しが起きない限り、どれだけ「学習」を積み重ねても、実際に使える力にはならないのだと、教える立場から何度も実感しました。
📌インター校での経験:環境があっても、発信の機会がなければ…
一方、インターナショナルスクール内の日本語クラスでも、子供側でまったく同じ構造が起きていました。
日本語のクラスで学んでいる子供達は、基本的にはご両親、または片親が日本人であるご家庭が多く、普段の家庭内での使用言語によっても日本語力にばらつきがありました。せっかく日本語のクラスで学んでいるにも関わらず、思うように日本語が伸びない子供達を何人も見てきました。
共通していたのは、家庭内では英語が基本であり、学校の休み時間になるとクラスメートの言語は英語、会話をすべて英語で完結させてしまうパターンです。特に国際家族の場合によく見受けられました。授業中は、日本語を「受け取り学習する」側に回ることはできても、休み時間や放課後、友達関係の中で日本語を「発信せざるを得ない」場面が極端に少なかったのです。
「同じ日本語クラス、同じ授業時間」という同じ環境にいても、家に帰ってから何語で1日を振り返っているか。授業の外側にある無数の小さなアウトプットの機会の総量が、結果として大きな差を生んでいました。「学校で日本語クラスを取らせていれば安心」という考え方は、環境だけを見て、その環境の中でどれだけ実際の日本語発信の機会があるかを見落としている点で、危険な誤解だと感じています。
📌我が子の3言語:英語・中国語・日本語で何が違ったか
自分の子供達を見ていて感じるのは、子どもの「習得」の力は確かに強いけれど、決して魔法ではない、ということです。何に、どれだけの密度で触れているかによって、結果ははっきり分かれます。
うちの子供達は、現地のローカル校に通っているため、学校生活のベースはすべて英語です。英語に関しては、学校という環境そのものが「発信せざるを得ない状況」であり続けているため、日常会話としては特に苦労なく「習得」のルートに乗ってきました。まさにここまで説明してきた通り、環境の中に発信の必然性がある言語は、放っておいても伸びていく、という好例です。
一方、同じ「習得」の力が強いはずの子供達でも、すべての言語が同じようには育ちませんでした。
うちの子供達は、小学校2年生くらいまで、中国語がほとんどゼロに近い状態でした。というのも、小学校に上がるまで、家庭内言語は英語と日本語だったからです。中国語に触れる密度そのものが、圧倒的に足りていなかったのだと思います。「学習」のルートは開いていても、そこに十分な量の意味あるインプットとアウトプットが流れ込んでいなければ、当然何も育ちません。家庭内で唯一の中国語話者であるパパも仕事で忙しく家を空けることも多く、義理の両親も家が離れており、気軽に会える状況ではありませんでした。
このままではまずい….と。転機になったのは、長女が小学3年生頃から通い始めた近所の中国語の塾との出会いでした。大手の塾というよりも、個人経営の塾でしたので、先生との距離も近く、話しやすさもあったようです。塾というと「学習」的な響きがありますが、実際には、その時間の会話は中国語のみ。得た語彙や表現を、パパや学校の友人関係の中で実際に使う場面が増えていったことが大きかったと感じています。塾での「学習」的なインプットが、生活の中での「習得」的なアウトプットの機会と結びついたことで、初めて言語として機能し始めたのです。「学習」か「習得」かの二択ではなく、両者がどう橋渡しされるかが本質だったのだと、この経験から強く感じています。
反対に、今もっとも気を配っているのが日本語です。学校生活の大半が英語・中国語である以上、放っておけば日本語を使う機会はどんどん減っていきます。子供達にとって、日本語はもはや自然に「習得」され続ける環境の中にはありません。
だからこそ、我が家では意識的に、日常会話と音読を欠かさないようにしています。音読は一見、「学習」的な行為に見えますが、実際には、耳と口を日本語の音とリズムに触れさせ続けるための、いわば「習得」の火を絶やさないための燃料です。完全に自然な「習得」環境を再現することはできなくても、意識的な「学習」的行動によって、擬似的に習得のルートを保ち続けることはできる。これが、環境的に不利な言語を維持する上で、私たちが実際に頼っている方法です。
📝まとめ:6つの実例が示していたこと
私自身(アメリカ):環境があっても、発信の必然性がなければ「学習」止まりになる。
NUSの学生たち:「学習」だけでは、意味のあるやりとりの中で使われない限り「習得」に橋渡しされない。
インター校の子供達:授業内の環境より、授業外の小さな発信機会の総量が結果を分ける。
我が子の英語:環境の中に発信の必然性がある言語は、放っておいても「習得」のルートに乗る。
我が子の中国語:「習得」の力があっても、触れる密度が足りなければ伸びない。
我が子の日本語:自然な「習得」環境を失った言語は、意識的な「学習」的行動で習得の火を支える必要がある。
環境は、言語習得にとって非常に有利な条件です。しかし、その言語環境に置かれていない場合でも、意識的に作り出すことも可能だということ。
📌日本にいながら「習得」ルートに乗るための、身近な工夫
特別な環境ではなく「日本語に逃げられない小さな場面」を、生活の中にどれだけ作れるかだと思います。
① 「この人とだけは英語」というルールを作る。
例えば「日本語が通じない相手」を自分の生活の中に持つということ。全部を英語にする必要はありません。職場に一人だけ外国人の同僚がいるなら、その人とのランチだけは英語にする。子どもの習い事で知り合った海外ルーツの保護者と、送り迎えの立ち話だけは英語にする。特定の相手との、特定の場面に絞ってしまえば、無理なく「発信せざるを得ない状況」を作れます。
② 独り言を英語にする時間を、家事や通勤に埋め込む。
アウトプットの相手が見つからない日もあります。そんなときは、料理をしながらレシピを英語で言ってみる。通勤中に頭の中で「これを英語でなんて言う?」と考える。相手がいなくても、声に出す・言葉を組み立てるという行為自体が、インプットで終わらせない橋渡しになります。私自身、日本語の音読を子どもに続けさせているのも、まさにこの発想です。
③ 「教える」役を引き受けてみる。
NUSで日本語を教えていた頃、実は一番言葉に詰まっていたのは学生ではなく、英語でレクチャーをしようとする私自身でした。日本語はとても繊細な言語が故、英語で説明することは至難の技です。人に何かを教える、説明するという立場は、否応なく「伝えなければ」という圧がかかります。会社の後輩に英語資料の読み方を教える、子どもの英語の宿題を一緒にやってみる、など「教える側」に回れる場面を見つけると、アウトプット量が自然に増えます。
④ 恥ずかしさより先に「わざと下手なまま話す」相手を決めておく。
先程のフィルターの話にあった通り、間違いへの抵抗が薄い人ほど伸びが早いということ。完璧に話せる相手を選ぶのではなく「この人の前でならどんなに下手でもいい」と自分で決めてしまう!子ども、後輩、あるいは同じレベルの学習者仲間など、対等かそれ以下に感じられる相手を一人見つけておくと、フィルターが下がった状態を作りやすくなります。
⑤ 「試験のため」を「あの人と話すため」に置き換える。
言語習得の目的は、テストの為の学習ではなく「人と繋がるため」だという前提の下でコミュニケーションを図ってみると、不思議と発話が増えていくはずです。顔の見える相手や場面に目的を結び直すだけで、同じ勉強時間でも習得に近づきやすくなります。
そして、もう一点。子供の習得の力は確かに大人より強いものの、無条件に発動するわけでもないという事も意識しておきたいことです。
「海外に行けば話せるようになる」のでも、「子どもだから自然に身につく」のでもなく、「習得」のルートに乗るために、どれだけ発信せざるを得ない状況を作れているか。ここに目を向けることが、日本にいながらの英語教育を考える上でも、もっとも重要な視点になると私は考えています。
