某ゲームに数万円課金したことがある。
欲しい駒があって、ガチャを回して、出なくて、また回して。
ようやく引き当てた瞬間のあの高揚感は、今でも覚えている。画面が光って、レアな駒が手に入って、「やった」と思った。
でも、その気分は長くは続かなかった。
数日経つと、その駒があることが「当たり前」になった。最強だったはずの駒も、次のガチャ更新で少しずつ色あせていく。
引いた瞬間がピークで、あとは緩やかに下がっていくだけ。数万円と引き換えに手に入れたのは、駒そのものというより、あの一瞬の高揚感だったのかもしれない。
当時は「まあ、ソシャゲってそういうもんだよな」で済ませていた。でも最近、モーガン・ハウセルの『The Art of Spending Money』を読んで、あれが何だったのか、ようやく言葉になった気がする。
お金の使い方は2つしかない
ハウセルはこの本で、お金の使い方は突き詰めると2種類しかないと言う。
- より良い人生を送るための「道具」
- 他人との比較で自分のステータスを測るための「物差し」
そして、本当は前者を望んでいるのに、後者を追い求めることに人生を費やしている人は多い、と。
これを読んだとき、真っ先にガチャのことを思い出した。
あの課金は、どっちだったんだろう。
純粋に「このキャラで遊びたい」なら、それは道具だ。自分の体験を良くするための出費で、誰にも見せなくても満足できる。
でも、正直に振り返ると、そうじゃない部分もあった。
強い駒を持っていることをフレンドに見られたい。ランキングで上に行きたい。
プロフィール画面を充実させたい。それは道具じゃなくて、物差しだ。
自分に問いかけてみる。「誰も見ていないサーバーで、一人で遊ぶだけだったとしても、同じ額を課金しただろうか?」
……たぶん、していない。
ハウセルは高級車や大きな家についてこの話を書いているけれど、構造はガチャもまったく同じだった。むしろガチャのほうが、純粋な形でこの問いを突きつけてくる。

ガチャは「快楽適応」の早回し実験だった
もう一つ、本を読んで腑に落ちたことがある。
「手に入れた瞬間がピークで、あとは下がっていく」あの感覚には、ちゃんと名前があった。快楽適応(ヘドニック・アダプテーション)。どんな買い物も、手に入れた瞬間に満足はピークを迎え、脳がすぐにそれを「当たり前」に変えてしまう。だから期待だけが上がり続け、幸福はいつまでも追いつかない。
家や車なら、この適応には数ヶ月かかるらしい。
ガチャは数日だった。下手すると数時間。
つまりガチャは、快楽適応をとんでもない速度で体験できる「早回し実験装置」だったのだ。普通の人が家を買って数年かけて学ぶことを、私は数万円と数日で学んでいた。当時は授業だと気づいていなかったけれど。

数万円の授業料
誤解しないでほしいのは、課金そのものを否定したいわけじゃない、ということだ。
好きなゲームに、自分の体験を良くするためにお金を使うのは、立派な「道具」としての使い方だと思う。問題は、自分がいまどっちの理由でお金を使っているのか、本人が一番分かっていないことだ。少なくとも当時の私は分かっていなかった。
ハウセルは、最良のお金の使い方とは「より自由に、自分らしい人生を送るための道具として生かすこと」だと書いている。
数万円のガチャ課金は、高い授業料だった。でも『The Art of Spending Money』を読んで、ようやくあれが何の授業だったのか分かった。
次にガチャバナーを見たとき、回す前に一つだけ自問しようと思う。
「これは道具か、物差しか。」
それだけで、たぶん財布の中身はだいぶ変わる。
