大人気アーティスト・ミスチル(Mr.Children)が所属する事務所「エンジン」。ミスチルの他にも、ナオト・インティライミ氏や、元プロサッカー選手の大久保嘉人氏が所属しています。
今回は、そんな「エンジン」が設立されるまでの歴史を語るために欠かせない、「エンジン」の代表取締役社長を務める谷口和弘氏について調べてみました。
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谷口和弘氏の経歴
谷口和弘氏が「エンジン」を立ち上げるまで、どんな出来事があったのでしょう。
谷口和弘氏のこれまでの経歴を紹介します。
谷口和弘氏の高校~専門学校時代
1976年12月、大阪に生まれた谷口和弘氏。両親と姉1人との4人家族で、音楽とは全く縁のない家庭で育ったそうです。
小学校時代からは、出身地として公表している三重県で過ごした谷口和弘氏が少年時代にまずのめり込んだのはサッカーでした。高校の途中まではサッカーばかりして過ごしていましたが、高校時代に遊びに行った友人宅でギターに触れ、音楽に目覚めたそうです。
友人たちとバンドの真似事をしているうちに、将来音楽の仕事をすることを考え始めた谷口和弘氏は、高校を卒業すると、大阪にあるキャットミュージックカレッジ専門学校の音響科に進みました。
専門学校卒業後、谷口和弘氏は東京へ
専門学校で音響科に所属していたこともあり、当初はエンジニアとして仕事したいと考えていた谷口和弘氏。しかしなかなか就職先が見つからず、三重県でアルバイトをしていたそうです。その時は音楽に関係のないアルバイトをしていましたが、やはり音楽の仕事をしたいという思いはずっと心の片隅にあったそうで、アルバイトで100万円を貯めたら上京することを目標として掲げました。
実際に半年ほどのアルバイトで100万円を貯めた谷口和弘氏は、仕事も決まらないままに、東京に出ています。
これが1997年9月ごろのことだったそうです。
当時、ミスチルはすでに大人気アーティストとして全国にその名を知れ渡らせていました。
谷口和弘氏もミスチルの大ファンだったそうで、上京するときに車の中で聴いていたのもミスチルの「ALIVE」でした。
上京後の谷口和弘氏
こうして東京に出てきた谷口和弘氏でしたが、上京して2ヶ月ほどは何もせず過ごしていたそうです。そんな時に楽器運びのアルバイトをしようと思い立ち、面接も決まりましたが、その日に実家の母親から「ウーロビートというところが面接したいと言っている」という旨の連絡を受けます。
このウーロビートという会社、実はミスチルがかつて所属していた事務所「OORONG-SHA」の子会社で、谷口和弘氏がまだ三重県にいた頃に求人に応募していたそうです。
さっそくウーロビートに電話をすると、すぐに面接が決まり、面接の結果その場ですんなり採用が決まった谷口和弘氏。なんだかミスチルとの強い縁を感じますよね。
こうしてウーロビートでマニピュレーターやエンジニアの機材を運ぶアルバイトを始めた谷口和弘氏。念願の音楽業界での仕事がスタートしました。
その時に出会ったのが、音楽プロデューサーであり人気シンガーソングライターの小林武氏です。ここから、谷口和弘氏と小林氏とは長い付き合いが始まります。
谷口和弘氏のマニピュレーターとしての仕事
ウーロビートでの谷口和弘氏の最初の仕事は、有名アーティスト桑田佳祐氏のスタジオでの機材運びでした。
東京に出てきてわずか3ヶ月で、桑田佳祐氏のスタジオにいることについて、当時の谷口和弘氏は不思議な感覚を覚えたそうです。
ウーロビートでのアルバイト時代は、機材を運んだ後は長時間待機し、夜中にバラす、という毎日だったそうで、家に帰る時間もなく倉庫に寝泊まりしていた谷口和弘氏。
機材運びからマニピュレーターの仕事に次第にシフトし始めた頃、谷口和弘氏は、当時のミスチルのチーフマネージャーにサッカーに誘われます。
そのサッカーにはミスチルのメンバーやシンガーソングライターで音楽プロデューサーとしても活躍している寺尾呼人氏が参加していました。
サッカー経験者だったこともあり、助っ人として活躍した谷口和弘氏は、その後もその集まりに定期的に参加することに。それがきっかけで、寺岡氏から人気アーティスト・ゆずのアルバムのレコーディングに誘われます。マニピュレーターとしての参加でした。
その後も藤木直人氏のデビュー曲に携わる等、マニピュレーターとして現場に出る機会が多くなった谷口和弘氏は、この後とうとうミスチルと一緒に仕事をすることになります。
ミスチルのアルバム制作に参加した谷口和弘氏
ミスチルのアルバム「Q」は、桜井和寿氏が所有していた山形のスタジオで制作されたそうです。谷口和弘氏もその合宿に誘われました。その時に寝食を共にし、信頼関係を築いていきます。
マニピュレーターからマネージャー業へ
谷口和弘氏が23~24歳の頃、当時のミスチルのチーフマネージャーから、マネージャーをやってみないかと誘われます。
これまでの経験を活かしながらマネージメントもできないかと考えた谷口和弘氏は、考えた末に承諾。谷口和弘氏のマニピュレーターとしての腕をかっていた周囲の人からは反対意見も出たと言いますが、谷口和弘氏の気持ちは固まっており、揺らぐことはなかったそうです。
その後、ミスチルのライブツアー「Mr.Children Concert Tour Q 2000-2001」に同行する等、マネージャーとしての経験を積んだ谷口和弘氏。
地道に仕事を続けていたある時、ミスチルのチーフマネージャーが他のアーティストに専念することになったのをきっかけに、谷口和弘氏がそのポジションに昇格することになります。
前チーフマネージャーが抜けてしまった後は、谷口和弘氏が1人で担当することになったそうです。当時の谷口和弘氏は、まだ20代中盤の若さ。その重圧から、当時は余裕がなく、格好つけていたと、谷口和弘氏は数々のメディアで語っています。
現在の柔和な谷口和弘氏からは想像できませんよね。
谷口和弘氏が語っていたマネージャーとしての喜び
谷口和弘氏は、メディアのインタビューで、ミスチルのマネージャーとして仕事をしていてうれしかった出来事について語っています。
2005年に開催されたミスチルのドームツアー「I ♥ U」。そのツアーと同じ年に広島で「SETSTOCK」という夏フェスが開催され、ミスチルにも出演の誘いがあったそうです。ドームツアーの公演は5大都市だけだったため、ツアーとしては中国・四国地方に行けないことから、谷口和弘氏は「SETSTOCK」に出た方がいいだろうと考えたそうです。
その事を小林武史氏に伝えていたところ、その話が小林氏からミスチルにも伝わり、谷口和弘氏がそう言うなら……と、すぐに「SETSTOCK」への出演が決まったのだとか。
谷口和弘氏はこの出来事を振り返り、認めてもらえたと感じて嬉しくてたまらなかったそうです。
株式会社エンジンを設立した谷口和弘氏
ミスチルに携わるようになって10数年の時を経て、谷口和弘氏は会社から独立することを決意します。
そのことをミスチルや、当時プロジェクトを立ち上げていたナオト・インティライミ氏に相談してみたところ、「一緒にやってみよう」ということになったそうです。このことからも、ミスチルやナオト・インティライミ氏が谷口和弘氏に絶大な信頼を寄せていることが伝わってきますよね。
そして、2014年5月に、株式会社エンジンを設立。
現在この事務所には、ミスチル、ナオト・インティライミ氏、元プロサッカー選手の大久保嘉人氏が所属しています。
「エンジン」という名前について、谷口和弘氏はメディアのインタビューで以下のように語っています。
みんなサッカーが好きなので、試合前にチーム一丸となって円陣を組むという「円陣」と、それを組むのが縁のある人々だなと思っていて、縁のある人と書いて「縁人」。そしてそれらが回って動力=「エンジン」として動いていくという、3つの意味が込められています。引用元:https://www.musicman.co.jp/interview/19712
ちなみに、「エンジン」という名前は最初にパッと思いついたものだそうですよ。
周囲の人との縁を大切にしてきた谷口和弘氏らしい名前だと感じますね。
まとめ
マニピュレーター、マネージャー時代を経て、現在はミスチルが所属する事務所「エンジン」の代表取締役社長を務めている谷口和弘氏。
今後もミスチルの活躍や、そんなミスチルを陰で支える谷口和弘氏に注目です。