【完全ネタバレ】ハプガチ!とは何か
ハプガチ!
「亡霊」を追いかけること
今回はフォロワーが500人に達した記念として、フォロワーがもっとも関心が高い事柄を取り上げようと思う。
ところで、「このTwitterのアカウントは誰か?」という、「本人」を巡る話題は興味が尽きないように思える。
そのアカウントの「本人」を知らない可能性が高いにも関わらずである。
そのような期待に応えるべく、今回のコラムのテーマは「私自身」である。
繰り返しになるが、Twitterアカウントの「本人」への好奇心や欲望は留まることを知らない。
実際のところ、私もハップマン氏と同一人物ではないかとの嫌疑をかけられた。
さらに、相葉氏、ハップマン氏とスペースで共演したにも関わらず、「影武者」が出演している可能性があるため、「ハップマン=ハプガチ!」説は否定できないとの言論が展開されたのである。
ある意味で、この主張は正しい。
なぜなら、すべての活動がネットで展開される以上、Twitterアカウントと本人の同一性(アイデンティティ)を証明することはほとんど困難に等しいからだ。
そうであるがゆえに、Twitterアカウントにおける想像上の実体は、自分自身の願望が参照・観念される傾向がある。
(この場合は、「ハップマン=ハプガチ!」)
現実に、Twitterアカウントと本人の同一性を証明する手段は、法律に基づく情報開示請求しかないであろう。
つまり、「Twitterアカウントが誰であるのか?」と問いかけ自体が、ネットという非現実空間だけでコミュニケーションが完結することを前提とするSNSと矛盾しているのだ。
Twitterを例としてSNSにおいて、仮想上の実体として存在しているかのように思えるのは、ツイートによって派生する「人格」のようなをものを人々が感じているからだ。
それによって、人々はアカウントの実体が誰であるかを、自分の願望に基づいて推測(妄想)する。
Twitterアカウントは、「亡霊」のように現実の実体を離れて活動し続けるのである。
このようにTwitterアカウントで本人を特定することの不可能性については、あらた氏がツイートで的確に示唆している。
あらた氏が疑惑を肯定も否定もしないのは、「亡霊」を追いかけても仕方ないからであると考えられる。
そうであればTwitterアカウントの実体とは何か?
ここでジャック・デリダのエクリチュールを引用したい。
『グラマトロジー』("Of Grammatology")からの引用である。
「テクストの外というものは存在しない」
"Il n'y a rien en dehors du texte"
デリダの言説を援用すれば、テクストに外部が存在しない以上、テクストしか存在しないTwitterアカウントの実体は、テクストそのものに他ならないのである。
エクリチュール
エクリチュール(仏: écriture)は、パロール(話し言葉)に対して用いられる、哲学用語の一つである。現代において、エクリチュールとパロールの二項対立とその差異に注目したのは、フランス現代思想家のジャック・デリダである。したがって、哲学思想において、エクリチュールと呼ぶときは、まず西欧社会にパロール本位主義(音声中心主義(fr:Phonocentrisme))があるとし、それに潜んでいた倒錯を暴くためのシステムが問題となる。それは、脱構築のための最初の手立てであった(詳細は「脱構築」を参照)。最終更新 2021年11月26日 (金) 05:55 『ウィキペディア日本語版』
Of Grammatology
Of Grammatology (French: De la grammatologie) is a 1967 book by the French philosopher Jacques Derrida. The book, a foundational text for deconstruction, proposes that throughout the Western philosophical tradition especially as philosophers engaged with linguistic and semiotic ideas, writing has been erroneously considered as derivative from speech, making it a "fall" from the real "full presence" of speech and the independence of writing.Wikipedia: The Free Encyclopedia. Wikimedia Foundation, Inc. 15 February 2022, at 01:43 (UTC).
Twitterでの活動の痕跡(Trace)はテクストに限定され、テクストの外部に実体は存在しないのだ。
Trace
Trace (French: trace) is one of the most important concepts in Derridian deconstruction. In the 1960s, Jacques Derrida used this concept in two of his early books, namely Writing and Difference and Of Grammatology.
In French, the word trace has a range of meanings similar to those of its English equivalent, but also suggests meanings related to the English words "track", "path", or "mark". In the preface to her translation of Of Grammatology, Gayatri Chakravorty Spivak wrote "I stick to 'trace' in my translation, because it 'looks the same' as Derrida's word; the reader must remind himself of at least the track, even the spoor, contained within the French word".[1]
ditto 11 March 2022, at 20:00 (UTC).
したがって、今回のコラムでは、過去のコラムを自己言及することで、テクストとして私自身について語っていこうと思う。
ジャック・デリダ
ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930年7月15日 - 2004年10月9日)は、フランスの哲学者である。フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。
エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。
(最終更新 2022年6月25日 (土) 05:26)『ウィキペディア日本語版』
テクスト
文学批評におけるテクストは、文字列として印刷などされた形態の作品を指す[1][2]。
一つのテクストはしばしば互いに対立する多数の解釈をもちうる[3]。
ロラン・バルトは『作品からテクストへ』(1971)で作者に関連づけられた「作品」という用語に対して中立な用語として「テクスト」を位置付けた[1]。
以後、ポスト構造主義でこの概念が広く使われた[2]。
ジャック・デリダの著作「グラマトロジーについて」De la grammatologie (1967) の有名な語句「テクストの外というものは存在しない」(il n'ya pas de hors texte)[4]は言語論的転回の考え方を示したものとされる[5]。
「テクスト (英語 text)」はラテン語で「織る」を意味する単語に由来する[1]。(最終更新 2022年6月24日 (金) 11:38)同上
コラムとはなにか
前章で示したとおり、本コラムの目的は過去のコラムを言及・参照することにある。
しかしながら、コラムについて自己言及する前に、重要な問いが残されていることに気づく。
なぜコラムなのか?
そして、コラムとは何か?
まずはその根源的な問いに答えたい。
私はコラムを始めるにあたって、YoutubeやTwitterなどのニューメディアでハプバーについて情報を発信していた、もぐにん氏や相葉氏のことを強く意識していた。
そのような背景から、あえて朝日新聞のようなオールドメディアをイメージさせる「コラム」という言葉を使って、彼らと差別化を図るイメージ戦略を行ったのである。
ブロガーに他ならない私が「コラムニスト」を自称しているのもそのためである。
コラム
ラテン語のcolumnaから出た「円柱」を意味することば。転じて英字新聞紙面における縦の欄をさし、さらに、一定の大きさを囲んで定型化した決まりものの記事欄を意味することが多い。日本の新聞では、常時定まっている寄稿記事、毎日同じところに連載される解説・短評欄のことをいう。『朝日新聞』の「天声人語」、『毎日新聞』の「余録」(1902年から掲載され、日本最古。当時は「硯滴 (けんてき) 」、のち改称)、『読売新聞』の「編集手帳」などが代表的なもの。社説が社論を代表し、政治、経済、社会に属する重要事項を取り上げるものであるのに対して、コラムは、市井のできごと、自然、四季の移り変わりに至るまで素材化でき、1人の筆者が主観的な感想を述べる場合が多く、読者により親しまれるものとなっている。日本大百科全書(ニッポニカ)
天声人語
朝日新聞の朝刊1面に掲載されているコラム。明治37年(1904)から続き、特定の論説委員が匿名で執筆する。デジタル大辞泉
テクストの自己言及によるテクスト
続いてテクストを自己言及していきたい。
最初のコラムは2022年4月1日に公開したハーネス東京に関するコラムであったように記憶している。
ハーネス東京のオープンも同日であるがこれは単なる偶然ではない。
「意図した偶然」である。
初めて告白するが、ハーネス東京のため、このコラムを始めたといっても過言ではないからだ。
実のところ、私はハプバーそのものに興味がなくなっていたのである。
ネットでは忌み言葉のようになった、いわゆる「むかしのハプバー」では、ある空間、ある瞬間ではあるが、アート、音楽、現代思想などハイブロウな会話を楽しみながら、時には異性と親密なひと時を過ごすような至福の時間があった。
しかし、そのような体験が本当にあったのかどうか自分自身でも疑うほどに、昨今のハプバーを取り巻く状況は変化し、私の関心もそこからは離れていた。
そのようなとき、偶然にハーネス東京の存在を知ったのである。
空間デザイナーが手掛けたというハプバーに私は心を奪われた。
杉本博司が好きな私は、写真だけでなく、彼の手掛ける建築にも強い関心を持っていた。
杉本博司
杉本博司(すぎもと ひろし、1948年2月23日 - )は、日本の写真家、現代美術作家、建築家、演出家[1][2]。東京都台東区旧・御徒町出身。東京及びニューヨークを活動の拠点としている。作品は厳密なコンセプトと哲学に基づき作られている。8×10の大判カメラを使い、照明や構図や現像といった写真の制作過程における技術的側面も評価されている[3]。(最終更新 2022年6月15日 (水) 01:50 )『ウィキペディア日本語版』
しかし、当時の私が「ハプバーを空間デザイナーがプロデュースしたら面白いのではないか」と考えていたかといえば、決してそうではない。
むしろ対極的な存在であると認識しており、そのことは私をハプバーから遠ざけるのに十分な理由であった。
それと同時に杉本博司や磯崎新について批評していた浅田彰の言論活動にも興味があり、おぼろげながらであるが、私にもそのようなことができないかと考えていたのである。
磯崎 新
磯崎 新(いそざき あらた、1931年(昭和6年)7月23日 - )は、日本の建築家・日本芸術院会員。一級建築士、アトリエ建築家。大分県大分市出身。父は実業家で俳人の磯崎操次。夫人は彫刻家の宮脇愛子。最終更新 2022年5月23日 (月) 15:44 同上
浅田 彰
浅田 彰(あさだ あきら、1957年3月23日 - )は、日本の批評家[1]。学位は経済学修士(京都大学・1981年)。京都造形芸術大学教授、同大学大学院学術研究センター所長[2]。最終更新 2022年6月24日 (金) 07:36 同上
そのような時にハーネス東京と出会い、自分自身を批評家に準えてオープンと同時にコラムを始めたのであった。
そうして、いよいよ実際にハーネス東京に訪れる機会を得た私は、批評家として、本格的なコラムの執筆にとりかかった。
店に訪れる前の私は、レム・コールハースの建築に関するエッセイ『S,M,L,XL』を意識して文章を書こうしていたように思う。
レム・コールハース
レム・コールハース(Rem Koolhaas、1944年11月17日 - )は、オランダのロッテルダム生まれの建築家、都市計画家。ジャーナリストおよび脚本家としての活動の後、ロンドンにある英国建築協会付属建築専門大学(通称AAスクール)で学び建築家となった。彼は自分の建築設計事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)とその研究機関であるAMOの所長である。またハーバード大学大学院デザイン学部における“建築実践と都市デザイン”の教授でもある。最終更新 2022年6月28日 (火) 04:12 同上
S,M,L,XL
S,M,L,XL (ISBN 1-885254-01-6) is a book by Rem Koolhaas and Bruce Mau, edited by Jennifer Sigler, with photography by Hans Werlemann.
Wikipedia: The Free Encyclopedia. Wikimedia Foundation, Inc. 9 May 2022, at 20:42 (UTC).
しかし、来店したことを契機に、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を頼りにコラムを執筆することを決めた。
谷崎 潤一郎
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。最終更新 2022年6月27日 (月) 07:41 同上
陰翳礼讃
『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)は、谷崎潤一郎の随筆。まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、関西に移住した谷崎が日本の古典回帰に目覚めた時期の随筆である[1][2]。
最終更新 2022年6月11日 (土) 11:26
日本家屋と近代的な設備とのミスマッチを論ずる谷崎の随筆を読んでいた私は、ロッカーと個室とシャワー室とバーカウンターを不自然に統合させたハプバーという空間に『陰翳礼讃』で論じられた近代的な日本家屋との類似性を感じていたからである。
今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯ガスや水道等の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。独りよがりの茶人などが科学文明の恩沢を度外視して、辺鄙な田舎にでも草庵を営むなら格別、いやしくも相当の家族を擁して都会に住居する以上、いくら日本風にするからと云って、近代生活に必要な煖房や照明や衛生の設備を斥ける訳には行かない。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(青空文庫)
もっとも、実際のハーネス東京は、従来のハプバーが抱えていた空間的な統合性の欠如を見事に解決しており、この点はコラムでも批評した。
しかし、コラムのタイトルは『【神は細部に宿る】鴨葱ラーメンとハーネス東京』という奇妙なものであり、サムネイルもラーメンの写真である。
何を意図したのだろうか?
別のコンテクストでほかのコンテクストに言及するという文学的な手法を取り入れようとしていたのである。
この場合はラーメン屋でハプバーを語るということを試みたのであった。
デリダ経由でハプバーを語る
このようにポスト構造主義の影響を受けた文学理論を用いて、私なりのテクストを構築しようとしたのである。
ポスト構造主義
ポスト構造主義(ポストこうぞうしゅぎ、英語: Post-structuralism)は1960年後半から1970年後半頃までにフランスで誕生した思想運動の総称である。アメリカの学会で付けられた名称であり当時のフランスではあまり用いられなかった[1]。
「反」構造主義ではなく文字通り「post(〜の後に)構造主義」と解釈すべきであるが、明確な定義や体系を示した論文は未だ存在していない。ただしポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といった古典的な概念に対する批判において一致しており、全体主義、父権主義、差別主義、自民族中心主義、啓蒙思想などを否定している。構造主義、ポストモダンとそれぞれ関係があり、現象学の影響を受けている。このため批評家のコリン・デイヴィスは「ポスト構造主義者でなく厳密にはポスト現象学者と言うべきである」と主張している。
最終更新 2021年9月17日 (金) 05:24 『ウィキペディア日本語版』
文学理論
文学[1]理論(英語: literary theory)とは、「文学とは何か」を構築するための理論である。文芸批評とは異なり、個別の作品の読み方ではなく、そもそも文学とは何か、あるいは何を目指すものか、どのように構成されているか、という根本的な問いを探求するものであり、作品の批評とは通常区別される。最終更新 2021年7月11日 (日) 04:10 同上
もっともすべてがうまくいったわけではない。
たとえば、前出のコラムは当初、バージニア・ウルフの『ダロウェイ婦人』に代表される意識の流れという文学的な技法や取り入れる見込みであった。冒頭のラーメン屋での下りがその痕跡であるが、結局のところは建築批評に終始してしまった。
ヴァージニア・ウルフ
ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882年1月25日 - 1941年3月28日)は、イギリスの小説家、評論家、書籍の出版元であり、20世紀モダニズム文学の主要な作家の一人。両大戦間期、ウルフはロンドン文学界の重要な人物であり、ブルームズベリー・グループの一員であった。代表作に『ダロウェイ夫人』 Mrs Dalloway (1925年)、『灯台へ』To the Lighthouse (1927年) 、『オーランドー』 Orlando (1928年)、『波』The Waves(1931年)などの小説や「女性が小説を書こうとするなら、お金と自分だけの部屋を持たなければならない」という主張で知られる評論『自分だけの部屋』A Room of One's Ownなどがある。最終更新 2022年7月8日 (金) 11:07 同上
ダロウェイ夫人
『ダロウェイ夫人』(ダロウェイふじん、Mrs. Dalloway)は、1925年に発表されたヴァージニア・ウルフの長編小説。第一次世界大戦の爪痕の残るロンドンでの、クラリッサ・ダロウェイの1日を「意識の流れ」の手法で、生、死、時を描いたモダニズム文学の代表作。最終更新 2022年6月16日 (木) 09:52 同上
意識の流れ
意識の流れ(いしきのながれ、英: Stream of consciousness)とは、米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、「人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである」とする考え方のことである[1]。
アンリ・ベルクソンも時間と意識についての考察の中で、ジェイムズと同時期に同じような着想を得て、「持続」という概念を提唱している(ベルクソンとジェイムズの間には交流があったが、着想は互いに独自のものとされることが多い)。最終更新 2021年3月18日 (木) 21:42 同上
そのような目論見の集大成は、ハーネス東京とリーベ・ゼーレのコラボイベントに関するコラムでとりあえず実現した。
ジュリア・クリステヴァの提唱した間テクスト性の手法を援用し、新約聖書でハーネス東京を批評したのである。
具体的には、聖書のマタイによる福音書を引用・経由しつつ、ハーネス東京とリーベ・ゼーレについて批評した。
さらには、ハーネス東京とリーベゼーレのコラボブランドネーム「Bias The ID」の"Bias"を、後述のとおり辞書学を援用して、テクスト分析するとともに、”harnes”と”Liebe Seele”という二つの単語と結合させたのである。
ジュリア・クリステヴァ
ジュリア・クリステヴァ(ユリア・クリステヴァ、Julia Kristeva / Юлия Кръстева、1941年6月24日 - )は、ブルガリア出身のフランスの文学理論家で、著述家、哲学者。ユダヤ系。最終更新 2021年12月23日 (木) 00:27 同上
間テクスト性
間テクスト性は、テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すことである。テクスト間相互関連性と訳されたり、英語からインターテクスチュアリティーと呼ばれたりすることもある。
ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照したりすることをいう。但し「間テクスト性」という用語自体、ポスト構造主義者ジュリア・クリステヴァが1966年に作り出して以来、何度も借用され、変形されてきた。
批評家ウィリアム・アーウィンが言うように、この用語は使用者によって十人十色の意味を持って今日に至っており、クリステヴァの本来の見方に忠実な者から、単に引喩や影響と同義のものとして使う者まで様々である。最終更新 2022年2月27日 (日) 08:04 同上
また、コラムにタイトルに「饗宴」という文字を入れたのは、プラトンの対話篇『饗宴』を意識したからだ。
具体的には、コラボイベント自体が古代ギリシャの饗宴を思わせる豪華さであったし、リーベ・ゼーレ担当者やハーネス東京オーナーとの会話を取り入れる余地があったからだ。
饗宴
『饗宴』(きょうえん、古希: Συμπόσιον、シュンポシオン、羅: Symposium)は、プラトンの中期対話篇の1つ。副題は「エロース(ἔρως、erōs)について」[1][2]。 2022年5月13日 (金) 03:54 同上
プラトン
プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Plátōn、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[注 1]。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする[1]。最終更新 2022年7月9日 (土) 09:19 同上
対話篇
対話篇(たいわへん[1]、英: dialogue, ダイアローグ)とは、複数の登場人物の間での対話形式を採った文学ないし学術作品である。独白(モノローグ)と対になる概念である[2]。
古より対話形式で著作を著した作家、叙述家、学者は多く、中でも西洋においては、哲学者のプラトンは膨大な著作のほとんどを対話篇で著したことで有名であり、東洋においても古代中国の諸子百家の書や仏教経典などにも対話篇を採用したものがある。
対話篇の利点は話し言葉で書かれることが多いことによる記述の平明さ、そして著者の思考の筋道を読者が追うことができる点などがある。しかし、欠点もあり、例えば、複数の登場人物が出てくることからいったいどの登場人物の主張が著者自身の主張であるかがぼやけかねないという点がある。現にデイヴィッド・ヒュームの『自然宗教に関する対話』の登場人物のうちクレアンテスかフィロンのどちらがヒューム自身の見解であるかについては現代でも論争の種である。
最終更新 2022年2月18日 (金) 05:40 同上
対話篇の概念は、以下のコラムでも採用した。
コラムで援用した手法は、間テクスト性や対話篇だけでない、積極的に辞書を参照・引用することによって、言語学の手法も応用した。
言語学
言語学(げんごがく、英: linguistics)は、人間の言語の特性、構造、機能、獲得、系統、変化などを研究する学問である。下位分野として、音声学、音韻論、形態論、統語論 (統辞論)、意味論、語用論などの様々な分野がある[1]。これらの下位分野は、(表出) 音 (手話言語の場合はジェスチャー)、音素、語と形態素、句と文、意味、 言語使用に概ねそれぞれが対応している。最終更新 2022年3月20日 (日) 04:48 同上
このように、古代ギリシャ哲学の対話篇の要素も盛り込むという、何層にも重なる、メタレベルでの極めて複雑なテクストの操作がこのコラムには隠されていたのだ。
デリダの亡霊とハプバー遺跡の発掘
ハーネス東京の一連をコラムでは、テクストのメタ構造化には成功したが、読み手にとっては情報が多すぎて、かえって分かりにくいものになってしまったのではないかという反省点が残った。
そこで私は新しい企画を模索することになる。
それが「ハプバー考古学」だ。
Internet Archiveを用いて、閉店した店舗の情報を調査するだけでなく、当時の状況を知る関係者から状況を聞き取ることで、ハプバーの歴史を明らかにしようとする試みである。
これは、丸山眞男が提唱した「古層」の概念と、中沢新一の『アースダイバー』の影響を受けたものだ。
丸山 眞男
丸山 眞男(まるやま まさお、1914年〈大正3年〉3月22日 - 1996年〈平成8年〉8月15日)は、日本の政治学者、思想史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻は日本政治思想史。新字体で、丸山 真男とも表記される。
専門学問は、「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ[1][2]、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び、称された。
最終更新 2022年7月1日 (金) 09:14 同上
中沢 新一
中沢 新一[注釈 1](なかざわ しんいち、1950年5月28日 - )は、日本の宗教史学者[3]・文化人類学者[4]。
明治大学特任教授/野生の科学研究所所長[5]。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。
クロード・レヴィ=ストロース、フィリップ・デスコーラ、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ等の影響を受けた現代人類学と、南方熊楠、折口信夫、田邊元、網野善彦等による日本列島の民俗学・思想・歴史研究、さらに自身の長期的な修行体験に基づくチベット仏教の思想研究などを総合した独自の学問「対称性人類学」を提唱する。
最終更新 2022年7月13日 (水) 23:23 同上
コラムの第1回では丸山眞男について取り上げているし、第3回では言及こそしていないものの、「アースダイバー」という言葉に着想を得て、フリーダイバーのジャック・マイヨールを補助線に最古のハプバー、「グラン・ブルー」を分析した。
(リュック・ベッソン監督によるジャック・マイヨールをテーマにした映画『グラン・ブルー』を店名にしたものと考えられる。)
アースダイバー
『アースダイバー』は、思想家・人類学者の中沢新一によって書かれた2005年に書かれた著作、または一連のシリーズである。一連の著作のコンセプトも指す。 最終更新 2021年11月5日 (金) 23:06 同上
ジャック・マイヨール
ジャック・マイヨール(Jacques Mayol, 1927年4月1日- 2001年12月22日)は、フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリアのエルバ島にて没。最終更新 2022年3月1日 (火) 07:57 同上
リュック・ベッソン
リュック・ポール・モーリス・ベッソン(仏:Luc Paul Maurice Besson、1959年3月18日 - )は、フランスの映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。映画製作会社ヨーロッパ・コープ (EuropaCorp) 社長。代表作は『レオン』である。最終更新 2022年7月9日 (土) 06:31 同上
グラン・ブルー
『グラン・ブルー』(Le Grand Bleu)は、1988年に公開されたフランスとイタリアの合作映画。監督はリュック・ベッソン。
フリーダイビングの世界記録に挑む2人のダイバーの友情と軋轢、そして海に生きる男を愛してしまった女性の心の葛藤を描く海洋ロマン。
10代からダイビングに親しんできたベッソン監督が、長年の夢だった“イルカに魅せられた潜水夫の物語”を、実在の天才ダイバー、ジャック・マイヨールの協力を得て映画化。撮影は1987年6月から約9か月に渡り、パリを含むフランス、ニューヨークなどで行われた。
フランスでは公開後、ハイティーンの若者達の絶大な支持を集め、映画館前は長蛇の列。上映前と終わりには、割れんばかりの拍手が映画館を埋めるような狂騒となった。フランス国内の観客動員数は1000万人、パリでは187週連続上映という記録を打ちたてた。彼らは「Grand Bleu Generation」と呼ばれ、社会現象にまでなった。
最終更新 2022年5月21日 (土) 00:39 同上
また御厨貴が政治学の分野で援用していたオーラル・ヒストリーの手法を駆使し、当事者から当時状況をヒアリングして、歴史の闇に葬られようとしていたハプバーの歴史に光を当てることによって、昨今のハプバーが抱える諸問題を考察しようとしたのである。
御厨 貴
御厨 貴(みくりや たかし、1951年4月27日 - )は、日本の政治史学者・政治学者。博士(学術)(東京大学・論文博士・2010年)。
東京大学・旧・東京都立大学名誉教授。東京大学先端科学技術研究センター フェロー [1]、放送大学客員教授。公益財団法人サントリー文化財団理事、サントリーホールディングス株式会社取締役。専門は、近現代日本政治史、オーラル・ヒストリー。
最終更新 2022年6月9日 (木) 18:25 同上
オーラル・ヒストリー
オーラル・ヒストリー (oral history) あるいは口述歴史(こうじゅつれきし)とは、歴史研究のために関係者から直接話を聞き取り、記録としてまとめること。政治史・労働史・地域史などのように、歴史研究の方法としてフィールドワークの伝統が根づいているところや、学際的な交流がなされてきた研究領域で発展してきた[1]。出自は1920年代の都市社会学におけるシカゴ学派のライフストーリーの方法論にたどることができる[1]。最終更新 2022年3月29日 (火) 09:58 同上
しかし、ポスト構造主義の残滓は消えない。それはデリダの「亡霊」に囚われているかのようだ。
たとえば、グランブルー以前に存在したお店やその時期を「プレハプバー」、「プレハプバー期」とコラムで定義したのであるが、これはフェルディナン・ド・ソシュールの言語学を意識したものである。
フェルディナン・ド・ソシュール
フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日[1])は、スイスの言語学者、言語哲学者。「近代言語学の父」といわれている(ここでいう「近代」とは、構造主義のこと、特に「ヨーロッパにおける構造主義言語学」を指している。それとは全く異なる「アメリカ構造主義言語学」もあるので注意。また、現代の言語学の直接の起こりは第二次大戦後であり、この「近代言語学」との直接の連続性は低い)。最終更新 2022年6月24日 (金) 07:57 同上
「プレハプバー」や「ポストハプバー」というようなシニフィアンを生成しつつ、ハプバーの脱構築し、昨今のハプバーに関するディスクールに抗おうと挑戦したのである。
シニフィアンとシニフィエ
シニフィアン(仏: signifiant)とシニフィエ(仏: signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学の用語。また、それらの対のことを、シーニュ(仏: signe)と呼ぶ。
シニフィアンは、フランス語で動詞 signifierの現在分詞形で、「意味しているもの」「表しているもの」という意味を持つ。それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。日本語では、シニフィアンを「記号表現」「能記」(「能」は「能動」の意味)、シニフィエを「記号内容」「所記」などと訳すこともある(「所」は「所与」「所要」などの場合と同じく受身を表わす。つまり「所記」は「しるされるもの」の意味)。なお、「能記」「所記」は『一般言語学講義』の小林英夫による訳業であり、以降広く用いられたが、現在では用いられることは少ない。
最終更新 2021年3月4日 (木) 11:38 同上
脱構築
「ポスト構造主義」を代表するフランスの思想家ジャック・デリダの中心思想。デコンストラクションともいう。ギリシアのプラトン、アリストテレス以来の西欧形而上 (けいじじょう) 学の中心テーマは「存在論」であったが、脱構築は、それを解体しようとしたハイデッガーの思想を発展させたものといえる。このデリダの思想はとくにアメリカを中心として世界的に影響を与えている。日本大百科全書(ニッポニカ)
ディスクール
ディスクール(フランス語: discours)は、言語・文化・社会を論じる際の専門用語としては[1]、「書かれたこと」や「言われたこと」といった、言語で表現された内容の総体を意味する概念である。日本語では意訳して言説(げんせつ)の語を当てることが多い。
当初は言語学において考え出された概念であったが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』および『知の考古学』を経て、哲学や社会学でも用いられるようになった。批評用語としての「ディスクール」はフーコーが託した意味を引き継いで使われることが多く、単なる言語表現ではなく、制度や権力と結びつき、現実を反映するとともに現実を創造する言語表現であり、制度的権力のネットワークとされる。
最終更新 2022年6月28日 (火) 08:19 『ウィキペディア日本語版』
法律とハプバー
上記のような現代思想をベースとしたコラムとは別に、法学をベースとしたコラムも数件ほど記した。
渋谷SB摘発を契機として、公然わいせつ、刑事訴訟法、風営法などについての論考を文章としてまとめたのである。
条文を引用するなど内容が専門的すぎるせいか、苦心した割にはあまり反響がなかったように思う。
また、前述したポスト構造主義の影響を受けたコラムとの結合を試みたが、それは依然として実現に至っていない。
あらた氏、おでんくん、そしてハップマン
もっとも反応が大きかったのは、あらた氏、おでんくん、ハップマン氏を取り上げたコラムであった。
事後的な報告であるにもよらず、コラム掲載を寛大な心で許容していただき、大変感謝している次第である。
彼らの存在なくしては、Twitterアカウント開始3か月程度でフォロワーが500人に到達することはなかったであろう。
しかし、デリダの「亡霊」はここでも徘徊する。
あらた氏による「ノーセックス」というエクリチュールを巡る状況が、デリダの言語論的転回そのものに他ならないからだ。
言語論的転回
言語論的転回(げんごろんてきてんかい、英: Linguistic turn)とは、「ある人の使用する言語表現がその人の思想を写像(mapping)したものである」という仮定の下、思想の具体的分析の方法として言語の分析を採用するという方法論的転換を言う。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが1922年に出版した論理哲学論考(Logisch-Philosophische Abhandlung)が決定的契機となり重要視されることとなった[1]。
最終更新 2022年6月30日 (木) 09:17 同上
シニフィエとして「ノーセックス」の意味は、ハプバーで遊べなかったことを自嘲する表現から、ハプバーであえて遊ばない姿勢や、ハプバーで遊ぶことを優先しない姿勢など様々な意味に拡散された。
それはデリダのいう散種そのものである。
散種
散種(さんしゅ,仏: Dissémination,ディセミナシオン)とは、哲学者ジャック・デリダの代表的な用語である。
解釈の可能性についての概念。ただし、多義性とは異なる。
「多義性」ではその単語を使った理由を知るために時代背景などを考察する必要を認め、(ほぼ)無限に遡ることを許す。しかし遡って得られるのはあくまで過去に存在した意味の「解明」である。つまり多義性における意味は、「過去」に存在し今後未来に回復されうるものである。
対して「散種」では意味を遡る際、過去におけるその単語の存在の有無、過去のその意味での使用の有無などに影響されない。過去には別の意味で使われていたかもしれないが、それは遡ることはできない。また今後とある言語の内部で新たに別の意味が設けられる時、その意味は多義性とは異なり、一つの意味に回収されずに拡散する。つまり散種とは、多義性という「同一性」にとらわれない差延的運動である。
最終更新 2021年11月12日 (金) 10:45 同上
「ノーセックス」は差延的運動であるともいえよう。
差延 (さえん、différance) とは、哲学者ジャック・デリダによって考案された「語でも概念でもない」とされる造語。
およそ何者かとして同定されうるものや、自己同一性が成り立つためには、必ずそれ自身との完全な一致からのズレや違い・逸脱などの、常に既にそれに先立っている他者との関係が必要である。このことを示すために、差延という方法が導入された。
最終更新 2021年11月12日 (金) 10:51 同上
あらた氏の亡霊もまたデリダのように徘徊するのである。
「俺の知らない間に知らない人格が活動しているのかも。」前掲あらた氏のツイート
自己言及の無限性とこれから
以上のとおり、フォロワー500人記念として、テクストを自己言及することによって、私自身のネタバレを行った。
タイトルで煽っておきながら、衒学趣味に付き合わせてしまっただけであり、申し訳ない気分である。
しかし、おそらくほとんどの方は興味がないのであろうが、ジャック・デリダのフレームワークでコラムを執筆していたというのが、私自身の最大の告白(ネタバレ)なのである。
つまり、フランスの現代思想家、ジャック・デリダにハプバーを語らせるという「遊び」をしていたのだ。
冒頭の「亡霊」という言葉ですら、デリダの"Specters of Marx"に着想を得たものだ。
Specters of Marx
Specters of Marx: The State of the Debt, the Work of Mourning and the New International (French: Spectres de Marx: l'état de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale) is a 1993 book by the French philosopher Jacques Derrida. It was first presented as a series of lectures during "Whither Marxism?", a conference on the future of Marxism held at the University of California, Riverside in 1993. It is the source of the term hauntology.Wikipedia: The Free Encyclopedia. Wikimedia Foundation, Inc. 16 April 2022, at 00:03 (UTC).
このように自身のテクストの自己言及は際限なく無限に続きそうである。
ここで話題を変えることにしたい。
これまでの文章でハプガチ!の実体はテクストにしか存在しないということを冒頭で述べたが、一ハプバー民として以下のとおり訂正させていただきたい。
ハプガチ!の実体はテクストと、ルームの中にしか存在しない。
なお、今更ではあるが、文中の専門用語や人名については、原則としてWidipedia日本語版を引用することによって補足した。説明が適当ではないものは、同英語版や、日本大百科全書(ニッポニカ)を使用した。
ところで、最近はtipsでのコラム公開だけではなく、Twitterでもショートコラムとしてツイートを始めている。
初見の人に5,000文字以上のコラムを読んでもらうのは現実的ではないからだ。
今後は店舗情報などをツイートで適宜配信しつつ、「ハプバー考古学」に注力していく次第である。
おかげさまで関係者から応援や貴重な情報をいただいており、執筆の原動力となっている。
Internet Archiveから情報を探し出す作業は、まさに発掘そのものであり膨大な時間を要するし、同連載も長期化が見込まれている。
そのような困難に立ち向かえるのもフォロワーの方々や、様々なやりとりをさせていただいている関係者のご支援があってのことである。
最後に、(存在するとは考えにくいが)1万6千文字を超えるコラムを最後まで読んでいただいた方、最後だけ読んでいただいた方、最初だけ読んでいただいた方、最初と最後だけ読んでいただいた方、全く読まれなかった方、全ての方々にお礼の言葉を申し上げて結びとしたい。
ハプガチ!をご声援いただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
【了】
【履歴】
2022/07/17 公開