【偽ハップマン論争】偽物ではないが、本物でもない
ハプガチ!
コラムの訂正可能性
先日公表した偽おでんくんと偽ハップマンのコラムは大変なご好評をいただいた。
本物のおでんくんと本物のハップマンにはこの場を借りてお礼を申し上げたい。
ところで、コラムでTwitterアカウントを取り上げるときは、事実誤認によるトラブルや、相手の感情を考慮し、訂正の機会を提供するために、Twitterでそのことを告知している。
事後的な通知としているのは、コラムで取り上げる都度、一方的に確認を要請するのは相手の負担になるし、ある種の責任を負わせることになってしまうからだ。
実際に相手からの申し入れで、内容を訂正したり削除したりするケースもある。
アポリアに直面する
前回のコラムについても、以下のような訂正の申し入れがあり、対応させていただいた。
「私はハップマンの偽物ではないが本物でもない」という趣旨の訴えであり、コラムで偽ハップマンとして取り上げられたことにより、裏垢女子複数名からブロックされるという実害を被ったというものだった。
「偽物ではないが本物でもない」とはどのようなことであろうか。
本物と偽物は反対概念であるが、その両方にも属さないというのである。
主張は理解の限界を遥かに超えていた。
そのテクストは、コラム開始以来のアポリアであった。
アポリア
哲学において、アポリアは哲学的難題または問題の中の一見解明できそうにない行き詰まりのことで、もっともらしいが実は矛盾している前提の結果として生じることが多い。さらにアポリアは、そうした難題・行き詰まりに困惑させられた、つまり途方に暮れた状態のこともいう。アポリアの概念はギリシア哲学の中に見られるだけでなく、ジャック・デリダの哲学の中でも重要な役割を果たしている。 最終更新 2020年8月26日 (水) 23:46 『ウィキペディア日本語版』
しかしコラム発表直後、私のもとに寄せられた情報が問題解決に糸口になった。
バーで会話をしていたところ、発言内容の類似性からか、「ハップマンですか?」と尋ねられたという。
そしてハップマン本人でないにもかかわらず、自身の意思に反し反射的に「はい!その通りです!」と、ハップマンであることに同意してしまったというのである。
以上の事例は「偽物ではないが本物でもない存在」そのものであるように、私には思えた。
何かの目的を達成するために、他人を装う人物は偽物である。
それは偽あらた氏の騒動が典型だ。
女性と遊ぶためにあらた氏になりすました事案である。
しかし今回の場合は、相手にそのような錯誤を引き起こさせる行為ではない。
気が付いたら、ハップマンになっていたということではないだろうか。
つまり、ハップマンの発言に影響され、自分でも気が付かないうちに、ハップマンになってしまったということである。
そうすると、少なくとも、相手をだます意図はないので、偽物扱いするのは妥当ではないし、本物ではないと告白していることから、非を咎めるようなこともしてはならないと思う。
ロベレ将軍と偽ハップマン
私は気が付いたらハップマンになっていたという、この事例を知ったとき、ある映画を思い出した。
『ロベレ将軍』という古いイタリア映画である。
ロベレ将軍
『ロベレ将軍』(ロベレしょうぐん、原題:Il generale Della Rovere)は、1959年にイタリアで製作・公開されたモノクロ映画である。同年9月ヴェネツィア国際映画祭において上映され、金獅子賞を受賞した。原作は実話に基づいたインドロ・モンタネッリの小説。最終更新 2020年3月29日 (日) 07:35 同上
この映画は、戦時中のイタリアでスパイのために将軍に偽装したペテン師が、最後は将軍になりきって、祖国のために身を捧げるという実話に基づく物語だ。
このペテン師はロベレ将軍本人ではないが、偽物ではない。
むしろ国に殉じた英雄である。
今回の偽ハップマンを巡るトラブルによって、一見して、矛盾する言葉の中にこそ、物事の本質が存在するということに気づかされた。
「偽物ではないが、本物でもない」
この言葉の意味するところは重い。
【了】
【更新履歴】
2022/7/26公開