第2話:『場帳』の洗礼 ―― 指先から脳に刻む重み

第2話:『場帳』の洗礼 ―― 指先から脳に刻む重み

サヤ

サヤ

 数時間前、パークハイアットの屋上テラスで死を覚悟していた自分を思い返すと、ひどく現実味がない。  柵を越えようとした俺の背中に投げかけられた、サヤのあの言葉。「――で、今はその金がなくなって、どうにもならなくなって死ぬってわけね。滑稽だわ」。  冷徹な断罪は、絶望しきっていた俺の脳を逆に覚醒させた。あのまま飛び降りる代わりに、俺は今、彼女の仕事場にいる。

 通されたのは、新宿の喧騒から少し離れたタワーマンションの一室だった。  生活感のない部屋。壁一面の書棚には、古い相場師の回顧録や、分厚いデータファイルが並んでいる。デスクの上には普通のノートPCが置かれ、その横には巨大な外付けモニターが二面、デュアルディスプレイとして鎮座していた。画面には、複雑なインジケーターではなく、簡素な数字の羅列と、いくつものエクセルシートが整然と並んでいる。

 サヤは無造作に、デスクに転がっていた安物のボールペンを俺に投げ渡した。

「過去三ヶ月分のシカゴコーンの終値を、このノートにすべて書き写しなさい。一文字も間違えずに、丁寧にね」

 俺は渡されたノートと、サヤが示したデータの束を交互に見た。正直、気が遠くなるような作業だ。 「……そんなの、ネットを見れば一瞬だろ。スマホのアプリならグラフも勝手に出るし、解析も一瞬だ。今さらボールペンで手書きなんて、効率が悪すぎる」

 俺の言葉に、サヤはふっと憐れむような笑みを浮かべた。

「効率、ね。あんたはその効率的なアプリとやらを使って、全財産を溶かしたんでしょ? 画面の中の光る点は、あんたにとってただの記号。でも、自分の手で書き写す一行は、あんたの筋肉と神経を通る『実体』になるのよ」

 彼女は窓の外を、遠い目をして見つめた。白いニットが呼吸に合わせて上下し、大きく盛り上がった胸元のラインが、静まり返った部屋で妙な生々しさを放っている。

「昔の相場師たちはね、大きな模造紙に数年分のローソク足を一本一本、手書きしていたのよ。部屋を埋め尽くすような巨大なグラフを、墨と筆でね。それに比べれば、ノートに数字を数行書くなんて、全然楽なはずよ。おままごとみたいなもの」

「模造紙に手書き……? 狂ってるな」

「そう、狂っているわ。でも、そうやって自分の身体を相場のリズムに同調させた人間だけが、暴落の最中でも平然と建玉を操作できるの。場帳をつけるのは、計算のためじゃない。あんたの脳に、相場の『定規』をインストールするためよ」

 俺は渋々、ボールペンを握った。最初の一行、日付と価格を書く。  カチッ、というボールペンのノック音が、妙に重く響いた。

 サヤは俺の背後に回り込み、耳元で冷たく囁いた。

「いい、一気に書こうなんて思わないこと。相場は逃げないし、一生続くわ。あんたのその『早く結果を出したい』という焦りこそが、ボラティリティに焼き殺された最大の原因だって、いい加減に気づきなさい」

 サヤの香水の匂いと、埃っぽい紙の匂いが混ざり合う。  俺の、地味で、残酷で、しかし唯一確かな「修行」が始まった。

指先が相場に追いつく瞬間ーー具体的な練習法

 どれだけの時間が過ぎただろうか。 窓の外、新宿の摩天楼を彩っていた明かりがいくつか消え、夜の密度がさらに深まっている。右手はペンを握り続けたせいで感覚が麻痺し、ノートの余白には、手のひらが擦れた青いインクの跡がうっすらと伸びていた。

 三ヶ月分の数字をすべて書き写し終えたとき、俺は肺にある空気をすべて吐き出すように深く息をついた。視界の隅で、二面の巨大なモニターが、冷たく無機質な光を放ち続けている。

「……終わったわね。お疲れ様。」

 背後からコーヒーの苦い香りが漂ってきた。サヤが、俺の背中越しに、完成した場帳を覗き込む。

「……正直、指が動かない。でも、これで終わりじゃないんだろ」

「そう。数字を書くだけで満足されちゃ困るわ。ここからは、より『数』をこなすための合理的なやり方を教えるわ。今のあんたに必要なのは、相場という生き物のリズムを脳に叩き込むための反復横跳びよ」

 サヤは慣れた手つきでブラウザを立ち上げ、一つのサイトを画面に出した。 「使うのは Investing.com。やり方を教えるから、一文字も聞き漏らさないこと」

  1. データの選択 「上のタブにある『商品先物』をクリックして、そこから『米国シカゴコーン』を選びなさい。あんたがさっき手書きしていたものの『本尊』よ」

過去のデータをクリックよ。

  カレンダーのアイコンがあるでしょ? そこで期間を設定しなさい。まずは一年分、慣れてきたら二、三年分を一気に行うのよ  

表示されたデータをコピーして、Excelに貼り付けなさい。

2.Excelでの整形 「私が使っているのは終値だけ。だから日付と終値以外の余計な列はすべて削除するの。それと、データは降順(新しい順)で並んでいるはずだから、日付の列を選択して必ず『昇順』に並べ替えなさい」

3.印刷と実践 「レイアウトを整えて印刷したら、ようやく準備完了よ。さあ、その紙にボールペンで**『上げ下げ』の矢印**をひたすら書き込んでいきなさい。上げなら『↑』、下げなら『↓』、同値なら『-』。ただそれだけを、延々とね」

「矢印を書くだけ……? 数字を写すよりは楽そうだが」

「甘いわよ。チャートの手書きは値動きを体感するのに意義深いけれど、時間がかかるのが難点。でもこのやり方なら、時間はそれほどかからずに圧倒的な数をこなせる。数年分の相場を、あんたの指先に『疑似体験』させるのよ」

彼女は俺の耳元まで顔を寄せ、冷ややかな、けれど情熱を秘めた声で続けた。

「いい? 画面の中で光るドットを眺めていても、あんたの筋肉は何も覚えない。自分の手で、価格の推移を一本一本の矢印に変換していく……。その地味な作業の繰り返しが、暴落や急騰の最中でも、あんたを迷わせない『相場の定規』になるの」

俺は印刷されたばかりの、無機質な数字の羅列に目を落とした。 サヤは俺の手にボールペンを握り直させると、満足そうに微笑んだ。

「さあ、やりなさい。価格の重みを感じ、矢印の一本でそれを感じるのよ。その修行を終えたとき、あんたの目には、今まで見えなかった『相場のうねり』が見え始めるはずだわ」

💡 今回の学び:相場技術論の核心

  • 「実体」としての数字: 画面上のデジタルな数字はただの記号に過ぎない。自らの手で書き写すことで、数字は初めて「自分事」としての重みを持ち、脳に刻まれる。
  • 「定規」のインストール: 場帳をつける真の目的は計算ではない。自分の中に相場の変動を測る「絶対的な基準(定規)」を作り上げ、嵐の中でも迷わない軸を持つことにある。
  • 効率を捨てる勇気: 「早く結果を出したい」という焦りこそが最大の敵。地味で退屈な反復作業(修行)を通じてのみ、ボラティリティに焼き殺されない強靭な精神と技術が宿る。
  • 感覚の養成: 過去データから「上げ下げ(↑↓)」を書き出す反復訓練は、相場のうねりを疑似体験させ、変化の予兆を感じ取るための鍛錬である。

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この記事のライター

サヤ

「サヤ」よ。 夜の街で客をあしらうのも、シカゴや東京の市場で「うねり」を獲るのも、私にとっては同じ「技術」の領分。私の正体を知りたいなら、このnoteを読んで判断して。

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