ソ・ジウォン/僕の涙を集めて
この曲は昨年話題になったとある韓国ドラマで起用されて再度流行したのだが、僕がこの曲を知ったのは1年ほど前にYouTubeのオススメで流れてきたことがきっかけだった。
あまりにも素敵な声とその声から伝わる表情に惹かれて、「この人自身」がどんな人か気になってすぐに調べたんだけど
96年の元旦に当時19歳で自殺しちゃってると知った。
彼の自殺に関してはネットで出てくる情報でしか分からないし、そういった事の真相は本人にしか分からない事だから特に何も言う事はないんだけれど
「96年に亡くなった人の作品を2024年に全然違う国に暮らすオレが偶然知って考えを巡らせる機会が生じた」
という事象に対して良し悪しを超越した何とも言えない気持ちになったためここに記しておく事にする。
彼は確かにもうこの世には居ないんだけれど
作品として声が残っていて
全然違う国で生きてる全然関係ないオレみたいな人間がたまたま聴いてさ。
「素敵な曲だな」って感じて自分について知ってくれたり
興味を持ってくれたりする事なんて
本人が予想できるわけもないし
それを知っていたところで
何の関係も意味も無いんだけど、
何十年先の全然知らない場所でもこうして誰かが自分の存在を知って何かしらの感情を抱く事って、ほとんどの人には決して起こり得ない事じゃん。
大袈裟だけど人間が生まれる事の意味の中でもかなり贅沢な事だなぁと思う。
そしてオレのようにこの曲を偶然知って、
興味を持って何かしらの影響を受ける人が他にもきっと何人もいるはずで。
それがどれほど素晴らしいものかと思うのに、
それを本人は知る由も無いと言うことがすごく切なくて、儚くて、愛おしくて、哀しい。
ただ、そういった意味では、
あまりにも短すぎる命だったし
言い方に語弊が生じるかもしれないけれど、
自分が生きていた証をこの世にしっかり残して、
生まれて来た意味を果たして亡くなったなと感じる。
人は多分、
そうやって自分が生きている(た)という事実を
誰かに知って(覚えて)いてもらえたら
それだけでもなんとか踏ん張れる場合も多いし、
それに加えて必要としてもらえてる事を実感出来たら
結構頑張れる生き物だよね。
つまり反対に、
誰も自分について関心を持ってくれていない孤独感に人間はめっぽう弱いと思う。
これはもう少し深く言うと、会社や仕事といった社会的な「役割」としての自分ではなく
そんなものを取っ払ったありのままの自分の事ね。
子供の頃って、
損得勘定とか保身とかそんな理由で人付き合い選ばずに、ただたまたま近所の子と遊んでて、
そいつが急に引っ越す事になったりしたらすごく寂しくなったりしたじゃん。
あぁいう感覚を自分に対して感じてくれる人がいる事を実感できれば、なんだかんだ嫌な事があっても人はそこそこ幸せに生きていけるんだと思う。
ほんの少しのタイミングの違いで、
それを実感出来ずに苦しくて自ら逝ってしまう場合も多いじゃん。
ジウォンがそうだったかどうかはオレには分からないけれど、なんとなくそんな事が理由で逝っちゃう人って少なくないんだろうなーってのは分かる。
もしもオレがこの世に沢山居たとしたら
そんな人たち一人一人と新大久保でチキンでも一緒に食べながら話聞いてあげて
「これからもたまに遊ぼうぜ!毎日はさすがにダルいから月一くらいで!」
って言ってあげたい。
だけどオレはどうやらこの世に一人しか居ないから、
せめて大切と思った人にだけは
一人じゃないと思わせてあげたいなと決めている。
一人じゃないと思わせてあげたいのか、
本当は自分が一人じゃないと思い込みたいのかまでここに書いて表現するともっと長くなってしまうし
それはまたこれとは別の問題だからやめておく事にする。
普段わざわざ文章にしたりする事は無いんだけど
今回はソ・ジウォンの作品を通して考えを巡らせたら
なぜか文章に残しておきたくて
書く事にした。
文字打ってる指が疲れたと言ってるしお腹空いてきたのでここまでにします。