高山優子は、28歳の新米カウンセラーだった。
大学で心理学を学び、念願の職に就いたものの、現実は想像以上に厳しかった。
クライアントとの関係構築がうまくいかず、セッションの後に「もう来ません」と言われることもしばしばだった。
ある日、優子は職場の廊下を歩いていると、大ベテランの西村智子の相談室から聞こえてくる笑い声に驚いた。
智子のクライアントたちは、カウンセリングを終えると、いつも晴れやかな表情で帰っていく。
その秘訣が知りたくて、優子は思い切って智子に声をかけた。
「西村さん、どうしてクライアントさんをあんなに幸せにできるんですか?」
智子は優しく微笑んだ。「優子さん、カウンセリングの目的って何だと思う?」
優子はすぐに答えた。「クライアントの問題を解決することです」
智子は首を横に振った。「それは違うわ。私たちの仕事は、クライアントの心を調律することなの」
「調律?」優子は首をかしげた。
「そうよ、ピアノの調律みたいなもの。私たちの役割は、クライアントの心の音色を美しく整えること。そのために大切なのは、セッションの終わりに、クライアントがどんな気持ちになっていてほしいかを常に意識することなの」
優子は智子の言葉に耳を傾けた。智子は続けた。
「例えば、仕事のストレスで悩むクライアントがいたとする。私はその話を聞きながら、『このセッションが終わる頃には、彼に希望を感じてもらいたい』と心に決める。そして、彼の強みや可能性を探り、それを伝えることに集中するの。問題解決のアドバイスよりも、彼自身が前を向けるような言葉かけを大切にしているわ」
優子は驚いた。これまで自分は、問題の分析や解決策の提示に集中しすぎて、クライアントの感情に十分な注意を払っていなかったことに気づいた。
智子はさらに続けた。
「カウンセリングの内容は、時間が経てば忘れられてしまうことも多いわ。でも、そこで感じた感情は長く心に残る。だから、クライアントがどんな気持ちでセッションを終えるかが最も重要なの」
その日から、優子は自分のアプローチを見直すことにした。
次のクライアント・田中さんとのセッションでは、「田中さんに自信を取り戻してもらいたい」という目標を心に決めた。
田中さんは職場でのいじめに悩んでいた。
優子はこれまでのように状況の詳細な分析に終始するのではなく、田中さんの過去の成功体験や強みに焦点を当てた質問を投げかけるようにした。
「田中さん、これまでの人生で困難を乗り越えた経験はありますか?」
「その時、どんな気持ちでしたか?」
「その経験から学んだことは、今の状況にも活かせそうですか?」
セッションが進むにつれ、田中さんの表情が少しずつ明るくなっていくのを感じた。
最後に優子はこう伝えた。
「田中さん、あなたはこれまでも多くの困難を乗り越えてきました。今回も必ず道は開けると信じています。一緒に頑張りましょう」
田中さんは涙ぐみながら頷いた。
「ありがとうございます。来てよかった。少し希望が持てました」
この経験を通じて、優子は自信を深めた。
その後のセッションでも、クライアントの感情的なゴールを意識しながら話を進めるようにした。
驚くことに、クライアントの反応が劇的に変わり始めた。
離婚に悩む女性には、「新しい人生への期待」を感じてもらうことを目標に。
受験に不安を抱える高校生には、「自己肯定感」を持ってもらうことを心がけた。
優子のアプローチは次第に評判となり、クライアントの数が増えていった。
以前はカウンセリングを途中で辞める人も多かったが、今では継続的に通うクライアントがほとんどとなった。
半年後、優子は思いがけない場面に遭遇した。
スーパーマーケットで買い物をしていると、以前カウンセリングを受けていた中年の男性が声をかけてきた。
「高山さん!お久しぶりです。あの時は本当にお世話になりました」
優子は驚いた。この男性とは、たった2回のセッションで終わってしまったクライアントだったからだ。
「ええ、お元気そうで何よりです」優子は笑顔で答えた。
男性は続けた。「実は、高山さんとのカウンセリングの後、人生が変わったんです。具体的な解決策はあまり覚えていないんですが、『自分にもまだチャンスがある』と思えるようになりました。その後、勇気を出して転職にチャレンジして、今はとても充実しています」
優子は感動で胸が熱くなった。
自分の言葉が忘れられても、そこで感じた感情が男性の人生を変えたのだ。
その夜、優子は日記にこう記した。
「カウンセラーとは、心の調律師なのだと実感した日だった。私たちの仕事は、クライアントの心の琴線に触れ、美しい音色を奏でられるよう手助けすること。そのためには、常に相手の感情に寄り添い、どんな気持ちで帰ってもらいたいかを意識し続けることが大切だ」
時が経ち、優子は地域で最も信頼されるカウンセラーの一人となった。彼女のもとには、様々な悩みを抱えた人々が訪れる。
しかし、どんな問題であっても、優子はまず「このセッションの後、クライアントにどんな気持ちになってもらいたいか」を心に決める。
そして、クライアントの話に耳を傾けながら、その人の強みや可能性を見出し、希望の種を蒔いていく。時には厳しい現実と向き合うこともあるが、常に前を向く勇気を与えることを忘れない。
優子のカウンセリングルームは、多くの人にとって心の避難所となった。
そこでは、問題がすぐに解決するわけではないが、クライアントたちは必ず、来た時よりも明るい表情で帰っていく。
ある日、新人カウンセラーが優子にアドバイスを求めてきた。
「高山さん、どうすればクライアントの心に寄り添えるんでしょうか?」
優子は微笑んで答えた。「大切なのは、クライアントの言葉だけでなく、その奥にある感情を聴くこと。そして、セッションの終わりに、どんな気持ちで帰ってもらいたいかを常に意識すること。私たちは問題解決の専門家ではなく、希望を灯す心の調律師なのよ」
新人カウンセラーは深く頷いた。
優子の言葉は、彼女自身がかつて智子から学んだ教訓のエコーだった。
そして今、その教えが次の世代へと受け継がれていく。
優子の物語は、人と人とのコミュニケーションの本質を教えてくれる。
私たちが誰かと話すとき、最も大切なのは相手の心にどんな感情を残すかということ。
それは、カウンセリングの場面だけでなく、日常のあらゆる人間関係にも当てはまる真理なのかもしれない。