正直、自分自身が何者なのか、どこへ向かっているのか、全くわからない。
教員を目指して大学へ進んだものの、興味は文化人類学へ向かい、その筋で有名な第一人者の元で文化人類学を研究、それと同時に教育課程も修了し、教員免許を取得、普通の学校に勤務すると思えば養護学校(特別支援学校)からオファーを受け、非常勤講師として肢体不自由児の学校に勤務。教科を教えるつもりだったのに全く教科を教えることなく、盲学校の寄宿舎指導員へ。学校での勤務採用が叶わず、就職活動の末老人保健施設の介護職員になり。再び臨時的任用講師として肢体不自由の学校に勤務し、任期満了とともに児童デイサービスの立ち上げに関与。その後解任され、訪問ヘルパーとして障害児者と関わり、その3年後再び肢体不自由児特別支援学校の介護員として3年勤務。そこでうつ病ならびにアルコール依存症と診断され解雇、治療を続けながらも親交のあった酒蔵に就職するも、病状が悪化し入院、同時に生活保護対象者となり、現在に至る。
私は生きていても死んでいても変わりのない、どうしようもなく存在するのに値しない人間だ。
しかし、命を繋いでいるし、こうして生きている。なんとも不思議なことで、なんとも惨めで虚しい存在だと我ながらに思う。けれど、こうして命を繋いでいるということは、なにか生きる意味があって、なにか誰かのためにお役に立てるのではないかと、いまでは思うようにしている。
本当は、死んでいてもいい存在なのだと思う。生きる意味が見つからない。そもそも生きていることに疑問がある。しかし、生きている。こんなに惨めで虚しくて、切なくて哀しいものはない。
私は、作家志望だった。けれども、作品が書けない。新人賞に応募しても受賞のかけらにもならなかった。教員になろうとしても、採用試験に受からない。教員としての素質がないということをまざまざと思い知らされた。日本酒が好きで、日本酒業界に携われたらと思った。実際に業界に入ることができたが、合わなかったのか体調を崩し仕事にもいけられなくなった。
なんの才能もない、なんの役にも立たない。まさにどん底、生きる意味さえも見つからない、じゃあ死ぬしかない、と自死を図ったが死にきれず入院。命を繋いでいまがある。正直いまでも生きていていいのか甚だ疑問だ。しかし、死ねない以上、生きるしかないのが現実だ。
死ねないのなら、誰かのためになろうと、リラクゼーションの勉強をした。全身マッサージ、リフレクソロジー、ハンドケア。免許まで取りにいった。お悩みに寄り添おうと、タロットやオラクルカードを勉強し、カードカウンセリングもはじめた。ご縁があってヒーリングの技術を学ぶこともできたし、古式レイキもアチューメントしてもらった。しかし、生かしきれていない、宝の持ち腐れだ。本当に私は、何がしたいのだろうか?
人に影響を受け、写真撮影も頑張った。一眼レフも買って写真撮影に夢中になったこともある。万葉集や百人一首に興味を持ち、短歌を詠むようになった。しかし、作品にはならない。詩や散文にも興味を持ち、それなりに頑張ってみたが評価されることはない。
本当に、自分自身の価値がわからない。生きていることが不思議でならない。死んで当たり前だと思う。いや、むしろもう死んでもいいのだろう。けれど、いくら死のうとしても死ぬことができないのもわかっている。
でも、そんな私だからこそ、生きていなければいけないのだということもわかっている。本当は、どこかに生きる意味があることも薄々気付いている。
命は簡単に捨てることができる。しかし、その命は、どういう形で捨てられるか。いや、捨てるというよりは全うする、と言ったほうがいいのかもしれない。死のうと思えばいつでも死ぬことができる。しかし、その命は軽いものではない。全ての命には重さがあり、その重さがあるからこそ軽んじることができないのだ。自死を図り入院しても、命がある。死にきれないけれど、同時に生かされている。
さて、私にはどんなお役目があるのだろうか?そして、何を為すべきなのか?全くわからない、わかる術もない。けれども生きている。偶然なのか気まぐれなのか、それとも必然なのか。
それをわからせてくれるのはきっと、あなただろう。
