好きな武将の一人、上杉謙信。
天正6年3月13日(1578年4月19日)に亡くなる。
享年49歳。謙信、
辞世の句。
四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒
49年の我が人生も一睡の夢のようなもので、この世の栄華も一杯の酒のようなものだ。
「敵に塩を送る」という有名な故事がある。
これは、上杉謙信が武田信玄に塩を送ったことによる故事である。
【敵に塩を送る】
(上杉謙信が、塩不足に悩む宿敵武田信玄に塩を送って助けたという故事から)苦境にある敵を助ける。《広辞苑・第五版》 1569年(永禄11年)、甲斐の国・信濃の国を領地としていた武田信玄が関東の 北条氏及び今川氏と結んだ同盟を破ったことから、これに怒った北条・今川 両氏は、その領内を通って武田氏の領地に運び込まれていた太平洋側からの 塩の供給を停止しました。世に云うところの「塩止め」です。 昔も今も塩は人間が生きていく上で必要不可欠な物資。内陸国で塩を生産す ることの出来ない甲斐・信濃の人々はこの塩止めによって大いに苦しむこと になりましたが、武田信玄とは宿敵とも云うべき関係にあった越後の上杉謙 信はこの塩止めに同調せず、日本海で生産された塩の販売を継続しました。 謙信は、「戦は弓矢をもってするべきもの。塩止めして領民を苦しめること でするものではない」という考えから、上杉領内の商人には、それまでどお りの価格での塩の販売継続を命じたとされます。この行為が 敵に塩を送る という故事となり、後に頼山陽がこの謙信の行動を高く評価したことから広 く知られるようになりました。 現在の新潟県糸魚川市と長野県松本市間を結ぶ「塩の道・千国街道」によっ て塩止めにより苦しんでいた武田領内の松本に越後からの「義塩」が運び込 まれたのが1/11といわれ、松本ではこの1/11の前後には塩市(現在は飴市) が立つようになったと云われています。
誠に正々堂々とした武将であり、49歳とは短い生涯であったと思う。
こんなことも述べている。
我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。
そして
弓矢の道に携わる者は、それぞれのことに義の道がなければ、武士としての法は立たない。主人に非ある時は我が身をかえりみず意見をすることが義である。己の根気が続く限り諌め、用いられねば、家を去ってもよい。戦場では潔い死を心掛けるのが義の頂上である。誰でも死を望む者はいないが、日頃、恩禄を受けていることは、ひたすら命に代わるものと観念し、あらかじめ無き身と考えることが義の本(もと)である。戦場にあって逃げるのは不義の至極(しごく)で武上の操ではない。盗賊の徒である。
我は兵をもって雌雄を戦いで決せん。塩をもって敵を苦しめることはせぬ。(上杉謙信)
こそこそ、人を陥れるようなことはせず、正々堂々とやりましょうや。
