【本作中の登場人物は全てフィクションです】
あれは確か、きゅうりを齧りながら帰った日のことだ。
その日はゴールデンウィークの四日目でやたらと車が多くてひどく渋滞していた。僕は出張整体を終えて車で帰る途中にその車の列に出くわした。空の高い、よく晴れ渡った一日の夕方。窓を開け放した車内にそよそよと優しい風が吹く。風がとても心地よくて渋滞も気にならないが、その時は腹が減って仕方なかった。
何か食べるものはなかったかと、年季の入ったレザーのバッグをごそごそと漁る。口にできそうなものはブレスケアと醤油せんべい、それからミニきゅうりが一袋。せんべいを一枚、ブレスケアを一つ、口に放り込んだが腹が満たされるはずもなく、僕はきゅうりを一本、手に取った。大人の中指くらいの太さと長さで、どこにでも生えている雑草のような色をしている。味は期待していなかったが、一口食べてみると意外な瑞々しさと甘さにすぐに一本食べてしまった。続けて、二本、三本、うまい。整体のお客さんがお土産に持たせてくれたきゅうりは思いの外おいしくて、塩もないのにどんどん入っていく。
前の車がのろのろと動き始めたが僕はきゅうりに夢中で出遅れてしまい、きゅうりを咥えたまま運転していたら信号のない三叉路で右から黒いワゴンタイプの軽自動車が車の鼻先を突っ込んできた。二十歳くらいの女の子が二人乗っている。僕は口にきゅうり、右手にもきゅうり。お先にどうぞ、と右手で示して道を譲るとその二人が噴き出す。
「ちょ、きゅうり」
と口が動いた。
「きゅうり食べてる、きゅうり」
読唇術の心得はないが、明らかに口がそう動いて、声も聞こえたような気がした。空耳かも知れないが。きゅうりを食べて悪いか。でも、このシチュエーションは面白いからよし。清々しい涼風が運転席側の窓から入り、吹き抜けていく。
☆
きゅうりで笑った女の子二人組を、なぜ冒頭で登場させたのか。それは、あのやり取りが単に面白かったから、それだけの理由だ。彼女らは後々に回収する伏線でもなければ、この後にエキストラとして登場することもない。今回の主人公であるCさんと女の子二人の間には何の関連もない。
ただ、きゅうり事件とCさんの記憶は僕の中で強く紐づいている。僕のエゴを満たすために、紙幅を割いたまでの話だ。
話を戻そう。
「きゅうり事件」による興奮も落ち着き、施術所を兼ねたアパートの駐車場に車を停めて玄関まで歩くと、黄昏れ時の寂しそうな景色の中に、ぽつんと知らない女性が立っていた。爽やかだった風は夜の冷たさをはらみ始めていた。それがCさんとの最初の出会いだった。
Cさんの容姿について目に入ったのは、まず均整の取れた二重の目。それから身長、一五五センチくらい。前髪は少し斜めに変化をつけたカットで、襟元で綺麗にまとめられた黒髪はいかにも触りたくなるような艶がある。少しだけキツネを思わせる顔つき。二十代後半だろうか。だがTシャツには頭が浮いている首のない熊の着ぐるみが描かれており、ロングスカートはアジアンテイスト。ラフな服装ながら容姿は美人さんに入る。その一方で、全体的な印象はちぐはぐで、精神的にはどこか病んでいる印象を拭えない人だった。
宗教や保険の勧誘かも知れないと思いながら
「こんにちは」
と声をかけると、
「こんにちは。あのすみません、こちらに整体があると知って伺ったのですが」
どうやら整体の予約が目的らしい。
「予約は電話で大丈夫ですよ、どうしてわざわざここまで?」
と訊くと、
「ホームページでおおよその場所は分かったけれど、時間もあったし確かめておきたかったんです」
とのこと。Cさんは翌日の夜に予約を入れて帰っていった。
☆
翌日もよく晴れた一日だった。日が暮れた頃、例のお客さん、Cさんは予定通りやってきた。
体のことを訊いてみると、もともと肩が緩くて亜脱臼癖があるらしい。本来、国家資格を持たない自分が取り扱って良い症状ではないが、施術自体は簡単なものだった。一回目はそれで終わり、二回目はその三日後に施術した。差し迫った問題がなくなると、しばらくは月に一回、肩をはじめとしたメンテナンスで通うことになった。三回目には家庭や仕事のこと、Cさんは色々と話すようになっていった。ここは整体の施術所で、お客さんの話を漏らさない守秘義務がある。それを知ってか知らずか、安心して心情を吐露するお客さんはいつも一定数いる。Cさんも回を重ねる毎によく話すようになった。
「先生、実は、」