曹操について語るとき、どうしても避けて通れない問題があります。
それが、徐州で行われた虐殺です。
日本では曹操というと、
「乱世を終わらせた英雄」
「合理的な政治家」
「人材を見抜く天才」
「実は劉備よりも現実的で優れた人物」
といった肯定的なイメージが広がっています。
もちろん、曹操に優れた政治的・軍事的能力があったことを否定する必要はありません。
しかし、だからといって、曹操の行った戦争や虐殺まで消してしまってよいのでしょうか。
今回は、曹操の生涯でも特に重要な事件の一つである徐州への侵攻と住民虐殺について、史料を中心に確認してみたいと思います。
曹操が徐州を攻撃した理由
そもそも、なぜ曹操は徐州を攻撃したのでしょうか。
発端となったのは、曹操の父・曹嵩の殺害です。
曹嵩は戦乱を避けて徐州方面へ移動していました。
当時の徐州牧は陶謙です。
『三国志』陶謙伝によれば、曹嵩は琅邪に避難していましたが、陶謙の配下の別将が陰平を守っており、その兵士たちが曹嵩の財宝を狙って襲撃し、曹嵩を殺害したとされています。
この事件を知った曹操は、陶謙を攻撃します。
もちろん、ここには注意が必要です。
曹嵩殺害を陶謙本人が命令したということまで、史料から確定できるわけではありません。
『三国志』の記述では、実際に曹嵩を襲ったのは陶謙の配下です。
したがって、
「陶謙が曹操の父親を直接殺させた」
と断定するのは適切ではありません。
しかし、曹操からすれば、
「自分の父親が徐州で、陶謙の勢力下にある兵士によって殺された」
という重大な事件だったことは間違いありません。
そして曹操は徐州へ軍を進めます。
最初の徐州侵攻
『三国志』魏書・陶謙伝には、曹操の初回の徐州遠征について、次のように記されています。
「初平四年、太祖征謙、攻拔十餘城、至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流。」
大意を取れば、
「初平四年、曹操は陶謙を討ち、十余城を攻め落とした。彭城に至って大いに戦い、陶謙の軍は敗走し、死者は万を数えた。そのため泗水の流れが止まるほどだった」
という記述です。
ここで重要なのは、「死者万数」と書かれていることです。
ただし、この箇所だけを読んで、
「曹操がこのとき徐州の住民数万人を虐殺した」
と断定することはできません。
なぜなら、この「死者万数」は、文脈上は敗走した陶謙軍の兵士を指していると読むことができるからです。
ところが、曹操の徐州遠征については、これとは別の非常に重要な史料があります。
それが『曹瞞伝』です。
『曹瞞伝』が記録する、さらに凄惨な内容
『三国志』では、後世の史料をそのまま本文に組み込むのではなく、裴松之が注として多数の資料を引用しています。
そのなかに『曹瞞伝』があります。
そして、この『曹瞞伝』には、極めて衝撃的な記述が残されています。
自京師遭董卓之亂,人民流移東出,多依彭城間。遇太祖至,坑殺男女數萬口於泗水,水為不流。
意味としては、
「董卓の乱によって都から東へ流れてきた民衆の多くが彭城周辺に身を寄せていた。曹操が到着すると、男女数万人を泗水で坑殺し、水はそのために流れなくなった」
という内容です。
ここで注目していただきたいのは、
「男女」
という言葉です。
つまり、単なる戦闘で敵兵を殺害したという記述ではありません。
史料の文面上では、男性だけではなく女性も含めた「男女」が対象になっています。
しかも、
「坑殺」
と明記されています。
さらに、その後についても『曹瞞伝』は、
引軍從泗南攻取慮、睢陵、夏丘諸縣,皆屠之;雞犬亦盡,墟邑無復行人。
と記します。
曹操軍は泗水の南から取慮・睢陵・夏丘の諸県を攻撃し、
「皆屠之」
――すべてを屠った。
そして、
「雞犬亦盡」
――鶏や犬まで残らず、
「墟邑無復行人」
――廃墟となった町には、もはや行き交う人影もなかった。
というのです。
これは、曹操の歴史を考えるうえで無視できない記述でしょう。
「でも『曹瞞伝』は曹操を悪く書いているから信用できない」という反論
ここで、曹操を擁護する立場から必ず出てくる反論があります。
それは、
「『曹瞞伝』は曹操を悪く書いた敵対的な史料だから信用できない」
というものです。
確かに、この指摘には検討する価値があります。
『曹瞞伝』がどのような立場から書かれた史料なのかを考えることは、歴史研究では当然必要です。歴史書に書いてあるからといって、すべてを無条件に事実と認定してよいわけではありません。
しかし、ここから、
「だから徐州虐殺は存在しなかった」
と結論づけるのは、あまりにも飛躍しています。
なぜなら、徐州での大量殺戮を示す記述は、『曹瞞伝』だけに存在するわけではないからです。
『三国志』本文にも「残戮」がある
曹操の徐州侵攻については、『三国志』武帝紀にも重要な記述があります。
曹操は陶謙を攻撃し、さらに徐州方面を進軍します。
その際、
「所過多所殘戮」
と記されています。
つまり、
「通過したところで、多くの殺戮を行った」
という意味です。
これは非常に重要です。
仮に『曹瞞伝』だけが、
「曹操が民間人を大量虐殺した」
と主張しているのであれば、史料批判の余地はもっと大きくなるでしょう。
しかし、曹操自身の側に近い史料をもとに編纂された『三国志』にも、徐州侵攻に伴う「多くの殺戮」が記録されている。
つまり、
「曹瞞伝に書いてあるから全部嘘」
では済まないのです。
さらに『後漢書』では「数十万人」
そして、さらに後世に成立した范曄の『後漢書』陶謙伝を見ると、記述はもっと凄惨になります。
そこでは、
凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流
とあります。
つまり、
「男女数十万人を殺し、鶏や犬も残らず、泗水はそのために流れなくなった」
という記述です。
さらに取慮・睢陵・夏丘を「皆屠之」とし、その結果、
「自是五縣城保,無復行多」
――以後、五県の城塞では人の行き来がなくなった、
としています。
ここで、
「数万人」
と
「数十万人」
という数字に違いがあることには注意が必要です。
犠牲者数については、史料間で一致していません。
したがって、
「曹操は正確に30万人を虐殺した」
などと断定することはできません。
これは歴史記事を書くうえで非常に大切なところです。
しかし、
「数字が一致しない」ことと「虐殺そのものがなかった」ことは、まったく別の問題です。
「数十万人」は本当にあり得たのか?
ここはさらに慎重に考える必要があります。
後漢末の人口統計には大きな問題があります。
戦乱、飢餓、疫病、流民化、戸籍からの離脱などが重なっており、当時の人口を正確に把握することは困難です。
したがって、
「曹操が徐州で数十万人を殺した」
という『後漢書』の数字を、そのまま現代の統計のように扱うことはできません。
また、「数十万」という数字自体が、古代史料でしばしば大きな概数として使われることも考慮する必要があります。
だからこそ、
「30万人だった」
とか、
「50万人だった」
といった具体的な数字を断定するべきではありません。
しかし、だからといって、
「数字が誇張されている可能性があるので、虐殺そのものも嘘」
とするのも論理的ではありません。
ここは、
犠牲者数には大きな不確実性がある。しかし、大規模な殺戮が行われたという史料的根拠は複数存在する。
と整理するのが妥当でしょう。
「徐州の住民は飢餓で死んだだけ」という説について
曹操の徐州虐殺を否定する議論のなかには、
「徐州の人口が激減したのは、曹操軍による虐殺ではなく、戦乱や飢餓、疫病が原因だった」
というものもあります。
これも、戦乱期の徐州を考えるうえでは無視できない要素です。
後漢末は中国全土が大混乱に陥っていました。
徐州だけが平和だったわけではありません。
飢餓も疫病も流民化もありました。
したがって、徐州の人口減少をすべて曹操軍の殺戮だけで説明するのは適切ではありません。
しかし、ここでも問題があります。
「飢餓や疫病があった」ことは、「曹操軍による殺戮がなかった」ことの証明にはなりません。
むしろ史料は、
「戦乱による飢餓・流民化」
と、
「曹操軍による殺戮」
の両方を考える必要があることを示しています。
そもそも曹操は何のために徐州を攻撃したのか
ここで、もう一度最初に戻ってみましょう。
曹操の父・曹嵩が殺害された。
その犯人は陶謙の配下だった。
曹操が徐州を攻撃する。
ここまでは、ある意味で「復讐戦」と説明できます。
しかし、問題はその後です。
仮に曹操の目的が、
「父を殺した責任者を討つこと」
だけだったとすれば、
なぜ、
男女数万人
が殺害されたと史料に記録され、
なぜ、
取慮・睢陵・夏丘の三県が「皆屠之」
と記録されているのでしょうか。
もちろん、当時の戦争では「屠城」は珍しいことではありませんでした。
しかし、
当時として普通だったことと、実際に大量殺戮が起きなかったことは別問題です。
古代社会で戦争犯罪という概念が現代と同じ形で存在しなかったとしても、殺された人々が存在しなかったことにはなりません。
「当時は普通だった」から問題ないのか?
この問題もよくあります。
「三国時代は残酷な時代だった」
「敵を皆殺しにすることは珍しくなかった」
「曹操だけを批判するのはおかしい」
確かに、その通りです。
曹操だけが虐殺を行ったわけではありません。
董卓も、袁紹も、袁術も、孫権も、劉備も、その他の群雄も、戦争と処刑から無縁ではありませんでした。
三国時代を「曹操だけが残虐だった時代」と説明するのは間違いです。
しかし、
「他の人間もやったから曹操は悪くない」
という論理も成立しません。
曹操を研究するなら、
「曹操だけを特別に悪魔化しない」
ことと、
「曹操が実際に行った殺戮を否定しない」
ことを両立させる必要があります。

「群雄も、戦争と処刑から無縁ではありませんでした」? ただし曹操以外には「男女」つまり非戦闘員の民間人を積極的に虐殺したという記録はない(董卓は民間人を愉しみで処刑したという話が残っているが曹操と比べれば数で大きな差がある)。曹操だけが特別に民衆虐殺に言及されている。しかも様々な文献で共通の記録がある。ということは当時でさえ、よほど酷いショッキングなこととして受け止められたのだろう。「古代人なら虐殺されても平気なんだ、だから曹操様の虐殺は正義だ」なんてことはあり得ない。そう思う人はもう人間ではなくなっている。倫理感の根っこは古代人も同じ、非人道な行いへの評価はいつの時代も同じだ。
「徐州虐殺はなかった」という極端な主張への疑問
私が特に疑問に感じるのは、
「徐州虐殺そのものが存在しなかった」
という極端な議論です。
史料に問題があることを指摘するのは、当然構いません。
「数十万人」という数字は本当に正しいのか。
『曹瞞伝』はどの程度信用できるのか。
『後漢書』の記述は何を根拠にしているのか。
『三国志』本文と裴松之注では何が違うのか。
こうした検証は必要です。
しかし、
史料を批判することと、史料に書かれている不都合な事実を消すことは違います。
むしろ歴史研究で重要なのは、
「この史料はどこまで信用できるのか?」
と問いながら、複数の史料を比較することです。
実際、『三国志』武帝紀には「所過多所殘戮」という記述があり、裴松之が引用する『曹瞞伝』には「坑殺男女数万口」「皆屠之」という具体的な記述があります。さらに『後漢書』にも「男女数十万人を殺した」とする記述があります。
この状況で、
「曹操による徐州での殺戮は全部後世の捏造だった」
と断定するには、かなり強い根拠が必要でしょう。
少なくとも、史料を普通に読んだだけで出てくる結論ではありません。
では、私たちはどこまで断定できるのか
ここまでを整理しましょう。
① 曹操が徐州を攻撃した
これは疑いようがありません。
『三国志』にも明確に記録されています。
② 曹操軍の徐州侵攻に伴って大量の殺戮が発生した
これも複数の史料から確認できます。
『三国志』武帝紀には「所過多所殘戮」。
裴松之注の『曹瞞伝』には「坑殺男女数万口」「皆屠之」。
『後漢書』には「男女数十万人」とあります。
③ 数十万人という数字が正確なのか
これは断定できません。
史料間で数字が異なります。
したがって、「数十万人」という数字をそのまま確定値として扱うべきではありません。
④ 虐殺された人々が全員「陶謙軍の兵士」だったのか
これも断定できません。
むしろ『曹瞞伝』は「男女」と記しているため、非戦闘員を含む大量殺戮を示唆しています。
⑤ 徐州の人口減少がすべて曹操の虐殺によるものなのか
これも違います。
戦乱、飢餓、疫病、流民化など、複数の要因を考える必要があります。
歴史上の曹操を評価するために必要なこと
ここで私は、曹操を「悪魔」として描きたいわけではありません。
むしろ逆です。
曹操を本当に歴史上の人物として評価するなら、彼の功績だけでなく、彼が行った戦争と殺戮も含めて考えるべきだと思います。
人材を登用した。
政治制度を整えた。
北中国を統一した。
文学にも才能を発揮した。
これらは曹操の重要な側面です。
しかし同時に、
徐州で大量の人間を殺害した。
都市を「屠った」と記録されている。
敵対勢力に苛烈な処置を取った。
そうした側面もまた、史料に残されています。
偉大な政治家だった。
だから虐殺を無視する。
これはカルト宗教に似た極端な崇拝でしょう。
「曹操の功績」と「曹操の罪」は別々に考えるべき
このようなことは曹操だけに限った話ではありません。
歴史上の人物を評価するとき、
「偉大なことをした人物だから悪いことはしていない」
という考え方は危険です。
曹操は、非常に有能な人物でした。
だからこそ、彼が行ったことの影響も大きかった。
そして、そのなかには多くの人間の命を奪う結果になったものもあります。
能力と道徳性は同じものではありません。
この二つを分けて考えるだけでも、曹操という人物はかなり違って見えてきます。
おわりに――「なかったこと」にする必要はない
曹操の徐州虐殺については、犠牲者数や個々の事件の詳細について、史料批判を行う余地があります。
「数十万人」という数字をそのまま確定値として扱うべきではありません。
『曹瞞伝』の性格についても検討する必要があります。
しかし、
だから徐州虐殺は存在しなかった
という結論にはなりません。
むしろ史料を丁寧に読むと、
曹操の徐州侵攻に伴って大規模な殺戮が行われたこと自体は、非常に強く示唆されている
と考えるのが自然でしょう。
そして、ここは曹操ファンにとっても重要なところだと思います。
曹操の魅力は、彼を完全無欠の英雄にすることでしか成立しないのでしょうか。
私はそうは思いません。
父を殺され、怒りに燃えて徐州へ攻め込む。
その結果、敵だけではなく、多くの民衆を巻き込む凄惨な戦争になる。
その一方で、後には優秀な人材を集め、北中国を統一する巨大な政治家になっていく。
この矛盾こそが、歴史上の曹操の恐ろしさであり、同時に面白さなのではないでしょうか。
曹操を英雄として楽しむことと、曹操の虐殺を直視することは両立します。
むしろ、本当の曹操ファンであるなら、都合の悪い史料を「なかったこと」にするのではなく、
「なぜ曹操はこのようなことをしたのか?」
「当時の戦争では何が起きていたのか?」
「曹操はなぜこれほど苛烈な手段を選んだのか?」
と考えてみるべきでしょう。
そして最後にもう一度、史料の言葉を確認しておきたいと思います。
「坑殺男女數萬口於泗水」
「皆屠之;雞犬亦盡,墟邑無復行人」
「男女数万人を坑殺した」。
「すべてを屠り、鶏や犬まで尽き、町には人影がなくなった」。
これは後世の漫画家が作った曹操でも、現代の歴史評論家が作った曹操でもありません。
少なくとも、古代の史料に記録され、後世の史家によって引用された曹操像の一つです。
この記録をどう評価するかは、読者それぞれに委ねられています。
しかし、
記録そのものを消してしまうことだけは、歴史を理解する方法ではないでしょう。
