【超高速でイメージするチーターの日本史】 ~イメージで無理なく身に付く禁断の日本史教材~(旧石器時代~奈良時代 )+いつでも手軽に学べるPDF付き! 1980円→無料
ロード 日本史×無理なく覚える記憶術
ロードです。本日はチーターの日本史を購入していただき、ありがとうございます。
この教材は、日本史の基礎と流れを素早くイメージで理解することを目的として作られています。
流れ(ストーリー)、イメージ、因果関係(why)、日本史の基礎知識に特化した参考書です。
世界記憶力グランドマスターも愛用しているイメージ記憶術を活用した、日本史教材となっています。
1つめの特典「時代区分の集中講義①」は、飛鳥時代の途中にあります。
2つ目の特典「チーターの日本史PDF版」は、最後にあります。
具体的には、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代の範囲を学習していきます。
(古代は飛鳥時代~平安時代までとされています。)
イメージが付きやすいようにわかりやすい語呂合わせも紹介します。必要に応じてご活用下さい。
難しい読み方の漢字にはフリガナを振ってあります。 例:漢字(かんじ)
挿絵画像は、イメージです。著作権上、一部画像を変更しているものや用意できないものがあります。
まずは、人間がサルだった原始時代から行きましょう!
旧石器時代→→縄文時代→弥生時代
原始時代の時代区分
原始時代といってもその中にもいくつかの種類があります。一番最初の時代は、今から1万3000年以上前の、石器ができる旧石器時代(先土器時代)という時代です。 教科書の中では一番昔の時代ですね。
※旧石器時代という呼び方のほうが一般的ですが、先土器時代という呼び名もあります。
その次の時代は、土器ができる縄文時代です。因みにこの縄文時代は、今から約1万年前です。そして、考古学上では新石器時代とも呼ばれます。
そしてその次が弥生時代です。弥生時代の期間は、紀元前4世紀から、紀元後3世紀までです。
※「紀元後」というのはつけてもつけなくても構いません。
紀元後とか、紀元前とか、何万年前とかでよくわからないと思うので、とりあえず、旧石器時代は縄文時代よりもずっと昔なんだなみたいな感じに理解できればいいと思います。 旧石器時代→縄文時代→弥生時代という流れをしっかりとおさえてください。
石器や土器のこと
旧石器時代の人々は、石を打ち砕いて作った打製石器と呼ばれる石器を使っていました。
主な道石器としては、木を切るための打製石斧(だせいせきふ)、切断用のナイフ形石器、槍のような尖頭器(せんとうき)などです。
縄文時代(新石器時代)になるとその石器が進化し、磨製石器という、石を磨いて刃を鋭くすることで、包丁のようにした石器が開発されました。
例として、磨製石斧(ませいせきふ)などが挙げられます。
縄文時代になって、磨くということができるようになったんですね。
また、この同じころ縄文土器も誕生しました。
縄文土器
続いて弥生時代に入ると、日本に金属器というものが伝来します。
金属器というのは、青銅器(せいどうき)と鉄器のことです。
- 鉄器→武器や農具
- 青銅器→祭器(仏事に使うもの)
青銅器のイメージ(図は銅鐸という鐘の一種)
鉄器のイメージ
鉄は今でも実用的ですが、青銅はあまり聞かないですよね…。青銅が使われているものといえば、、彫刻作品くらいでしょうか。
- 要点:この青銅器と鉄器は、日本にほぼ同時に伝来しました。
また弥生時代というくらいなので、弥生土器ができた時代でもあります。
気候の変化とそれに伴う暮らしの変化
地質学という学問があるのを知っていますか?
地質学上では旧石器時代は更新世(こうしんせい)、縄文時代は完新世(かんしんせい)と呼ばれます。
今から約一万年前に、地質学上の更新世というものから完新世というものになるわけです。
更新世のほうが昔で、完新世のほうが最近です。
これは地質学上の難しい言葉ですが、あまり深く意味を考えず、
更新世は、その名の通り更新している最中の時代
完新世は、完璧に完成してしまった、もうこれ以上新しくならない時代
という感じで覚えてください。
- ※更新世は、今から約170万年前から、1万年前までのこと。そして完新世は、氷河期が終わる1万年前から、現在までのこと。
- 重要: 更新世→旧石器時代 完新世→縄文時代から現代まで
更新世のイメージ↓
完新世のイメージ
ではなぜ一万年前を境に、旧石器時代や縄文時代を更新世や完新世といった難しい言葉で時代を分けたのでしょうか。
それは、約1万年前に、地球の気候が大きく変わったからです。
古いほうの時代区分である更新世(旧石器時代)のころ、地球は氷河時代でした。といってもずっと寒いわけではなく、ものすごく寒い氷期と少し暖かい間氷期が交互に訪れている時代でした。
約1万年前の縄文時代に氷河時代が終わり、地球が温暖化していきました。
気温が上がると、かつてあった氷河が溶け水になるため海面が上昇します。
すると今まで氷河によって歩けたところが海になり、大陸と繋がっていた日本は切り離されました。
このように大陸と切り離されることによって、日本列島が誕生したのです。
気候に伴う動物、住居、道具の変化
氷河時代が終わり暖かくなると動物や住居なども変わってきます。人々の暮らしはどう変わっていったのでしょうか?
動物の変化
まずは動物の変化です。気候が変化すると、それに対応できる動物も変わっていきます。
例えば、大きくて厚い毛が生えている動物は体温が維持しやすいので、氷河時代は暮らしやすかったと思います。しかし暑くなったらどうでしょうか。暮らしにくいですよね?
実際に、氷河時代には沢山の大型で毛が厚い動物が住んでいました。
例えば、マンモス、ナウマンゾウ、オオツノジカなどです。
マンモス↓
ナウマンゾウ(図はナウマン公園)
オオツノジカ
しかし温暖化によりこれらの大型動物の生存は難しくなり、どんどん絶滅したり場所を追われたりしました。
その代わりに、温暖化で森林が増えたことでイノシシや二ホンシカなどの毛が薄い中小動物が暮らしやすくなりどんどん数が増えていきました。
イノシシ
二ホンシカ
住居の変化
動物の変化により人々の住居も変わっていきます。
なぜなら、人は動物を食べて生きているからです。
大型動物がいたころの時代はとても寒く、あまり食料が得られない時代でした。そのため、マンモスのような動物を追いかけながら移住生活をしていたのです。
そのため住居もしっかりした家などはなく、いつでも撤収しやすく移住生活に適した 作るのが簡単な小屋などになります。
それが縄文時代になり温暖化が進行したことで、海面が上昇し魚が取りやすくなりました。また森ができたことで、動物を追いかけながら生活する必要がなくなりました。
その結果、竪穴住居という地面を掘って屋根をかけた家を作り定住することになりました。
稲作と倉庫
弥生時代になると稲作が始まります。それに伴い、採れた米を貯めておく倉庫が必要になります。
そのためにできたのが、高床倉庫や貯蔵庫です。
米は年に一回しか取れない非常に貴重な資源なので、大切に保管する必要がありました。
そのため高床倉庫には、湿気で腐らないように地面から離したり、ネズミにつまみ食いされないようにネズミ返しをつけるなどといった工夫が施されています。
↑竪穴住居(左)と高床倉庫(右)
道具の変化
動物が変化すると、その動物を狩ったり調理したりする道具も変わっていきます。
旧石器時代と縄文時代の人々は、共に狩猟・採取をして生活していました。
2つの時代の大きな違いは、狩る動物の種類です。
旧石器時代の動物は、マンモスのような大型動物でした。大型動物はそこまで速いスピードで動かないので槍などの武器で十分ですが、縄文時代となるとそうはいきません。
なぜなら縄文時代の動物は、イノシシなどのすばしっこい中小動物だからです。このような素早い動物を捕まえるためには、飛び道具や罠が必要です。
そこで開発されたのが弓矢と落とし穴です。このような道具があれば、すばしっこい動物でも捕まえることができますね!
ちなみに、この弓矢の先端の矢尻という場所には黒曜石という石が用いられました。
黒曜石
この石は硬く,ガラスのような鋭い石であるため、弓矢に適しているわけです。
しかしこのような石はどこにでもあるものではありません。皆さんの周りにも、黒曜石なんてなかなか落ちてないですよね?
この石は、北海道の十勝岳(とかちだけ)、熊本県の阿蘇山(あそざん)、長野県の和田峠(わだとうげ)などの限られた場所でしか取れませんでした。
十勝岳(北海道)
阿蘇山(熊本県)
和田峠(長野県)
そこで当時の人々は気づきました。「近くに黒曜石がないのなら、黒曜石がある地域の人と物々交換をして手に入れればいいんだ!」ということを。
黒曜石以外にこのような交易がおこなわれていたものといえば、ひすい(翡翠)やサヌカイト(讃岐石)があります。
翡翠
サヌカイトの画像は著作権上用意できませんでしたが、とにかく黒くてきれいな石です。
漁業の道具の変化
また縄文時代は、温暖化により海面上昇が起こったことで漁労が盛んになった時代でもあります。
- ※海面上昇が起こると、列島が海に囲まれ、魚が獲れやすくなります。
その結果、釣り針や銛といった道具が作られることになります。
これらの道具は動物の骨や角を使った、骨角器というもので作られます。
骨角器のイメージ
稲作の始まり
前述の通り、弥生時代になると稲作(いなさく)が始まります。しかし、このころはまだ今のような田植え機やコンバインなどといった技術はもちろんありません。そして、川から水をくむのも大変です。
そこで当時の人々は、もともと地面に水が大量に含まれている湿地という場所に田んぼを作ることにしました。
しかし湿地は名前の通り常に湿っている場所であるため、水はけが悪いです。田圃を作るには、日当たりがよく水はけがいいことが絶対条件です。
したがって湿地は稲作に適しません。田を作るには、湿っているだけじゃダメなんですね。
その経験を踏まえて、弥生時代の後半になると湿地ではなく乾田(かんでん)という場所で稲作をするようになりました。大変ですが、日当たりのいい場所に水をひかなければ稲を作ることはできません。
農具の誕生
稲作が始まれば当然、農具が必要になります。
この時代の農具の代表例として挙げられるのが、木臼(きうす)と竪杵(たてぎね)です。これは脱穀という作業をするのに使われるものです。
その他にも、田を耕すための、鍬(くわ)、鋤(すき)、収穫のための、石包丁や田下駄という道具もあります。
鍬
鋤
石包丁
田下駄
アニミズムとその道具
縄文時代は、今以上に自然に頼りすぎる時代でした。今のような技術はありませんからね…。
そこで、植物や動物が取れなくなったらそれは自然(木や草など)に宿っている神が怒っているからだ!と考えるようになります。
その結果人々は自然に宿っている神を信仰する、アニミズム(精霊崇拝)を始めます。
その一環として、豊穣や多産などを祈る土偶(どぐう)と石棒が作られるようになります。
※土偶は女性を表しており、石棒は男性を表しているといわれています。
土偶
石棒の画像は入手できませんでしたが、石でできた男性器のような形をしています。
また、大人になるための儀式として抜歯(ばっし)が行われました。
抜歯とは、その名の通り歯を抜くことです。痛いですね…。
原始時代の墓制
次に縄文時代の墓制(はかせい)を見ていきましょう。
縄文時代、死者は災いをもたらすものとされていました。そのため、亡くなった人を埋めるときは必ず手足をまげて埋葬しました。これを屈葬(くっそう)といいます。
しかし弥生時代になると、自分に土地を与えてくれた先祖を敬う気持ちから屈葬はなくなり、手足を伸ばして埋葬する伸展葬(しんてんそう)へと移行していきました。
また弥生時代は、稲作の始まりにより所有という概念が生まれ、その土地の支配者が出てくる時代でもあります。するとその支配者の権力をめぐり、争いが生まれます。
争いに勝った支配者は自分の権力を死後も示したいと思うようになります。そこで支配者は自分の墓を持つようになったのです。
初めの墓は、甕棺墓(かめかんぼ)といって、人が一人はいるくらいの植木鉢のような土器に副葬品(ふくそうひん)という財宝を詰め込んで埋めるといった方法でした。
甕棺墓
しかし、それでは自分の墓は外からは見えません。自分の権力を後世に伝えたい権力者たちはそれでは満足しませんでした。
そこで誕生したのが支石墓です。支石墓(しせきぼ)は自分の亡骸が埋まっている場所の周りに石を置くことで、自分の墓の場所が外から見てもわかるという画期的なものでした。
その他にも、墓の周囲に溝を掘る方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や盛り土をした墳丘墓(ふんきゅうぼ)といった墓もこのころに作られました。
外から見えて、目立つ形のお墓が人気だったんですね。
支石墓
墳丘墓
旧石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡
さあ、いよいよ入試頻出の原始時代の遺跡を見ていきましょう。
まずは旧石器時代の遺跡からです。
旧石器時代の代表的な遺跡は、群馬県にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)です。この遺跡が発見される前は、日本に旧石器時代があることは知られていませんでした。
相沢忠洋(あいざわただひろ)という人が、この遺跡の関東ローム層から打製石器が発見したことがきっかけで日本に旧石器時代が存在していたことがわかったのです。
- 相沢忠洋が岩宿遺跡の関東ローム層から石器などを発見したのは、昭和21年です。
↑関東ローム層のイメージです。写真は屏風ケ浦(千葉県)
次に縄文時代ですが、貝塚という当時のごみ捨て場の遺跡が有名です。例えば、アメリカ人のモースが発見した大森貝塚、それ以外では千葉県の加曾利貝塚(かそりかいづか)などが有名です。
また、縄文時代の集落の遺跡もあります。代表的なものは青森県の三内丸山遺跡です。
他にも、農耕が行われていたことを示す福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)や佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)などがあります。
大森貝塚(東京都)
加曾利貝塚(千葉県)
三内丸山遺跡(青森県)
最後に弥生時代の遺跡です。
まず弥生時代の農耕を表す遺跡としては、静岡県の登呂遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)などがあります。
またこの時代は度々戦が起こる時代であったため、周囲に堀を掘ることで敵の侵入を防ぐ仕組みがある環濠集落(かんごうしゅうらく)という集落の跡が見られます。
代表的なものとしては佐賀県の吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)が挙げられます。
登呂遺跡(静岡県)
唐古・鍵遺跡(奈良県)
吉野ケ里遺跡(佐賀県) 堀があるのがわかります。
今までは日本の内部を中心にみていきましたが、次の項目からは海外とのかかわりを扱います。
弥生・古墳時代の、海外とのかかわり
それでは日本と海外とのかかわりを見ていきましょう。
海外の動向が中心となる部分も多く出てきます。
ここからは、古い文書にかかれている内容をもとに当時の日本の様子を学んでいくことになります。あの魏志倭人伝とかが出てくる分野です。
この古い文書というのは、主に中国の文書です。なぜかというと、当時はまだ日本に文字がなかったからです。そのため中国の文書を通じて日本のことを学ぶこととなります。
中国は滅んで再建されてというのを繰り返しているため、名前が変わることが多くあります。
古い順から先に紹介しておくとこんな感じです。
夏(か)BC.2100
殷(いん)BC.1600-BC.1100
周(しゅう)西周:BC.1100-BC.771、東周:BC.770-BC.256
秦(しん)BC.221-BC.206
漢(かん)前漢:BC.202-8、後漢:25-220
三国時代(さんごく)220-265
晋(しん)265-420
南北朝(なんぼくちょう)420-581
隋(ずい)581-618
唐(とう)618-907
五代・十国時代(ごだいじっこくじだい)907-960
宋(そう)北宋:960-1127、南宋:1127-1279
元(げん)1271-1368
明(みん)1368-1644
清(しん)1644-1912
中華民国(ちゅうかみんこく)1912-、現台湾
中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)1949-
- ※BCは紀元前という意味です。
このように現在の中華人民共和国という名前になるまでに何回も国名が変わったことがわかります。ただ、日本史で出てくる名前はごく一部に限られています。すべて覚える必要はありません。
※3世紀までは日本は弥生時代です。この文書が多く出てくる時代は、弥生時代の次の古墳時代と混ざりやすいので気をつけましょう。
またここからは、覚えやすい語呂合わせも度々ご紹介します。
紀元前の日本(倭国)と漢書地理史
それでは、まだ倭国といわれていた紀元前1世紀のことから見ていきましょう。 この時はまだ、日本では弥生時代です。
紀元前の日本の様子を知るためには、紀元後の1世紀に書かれた中国の書物である『漢書』地理史(かんじょちりし)を読む必要があります。
イメージ
漢書という名前ですが、これは中国の前漢(ぜんかん)の時代に作られた歴史書です。
漢書地理史の内容はこんな感じです。
夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
要約すると、楽浪郡(らくろうぐん)(現在の朝鮮半島)の向こうに倭人がいて、100個余りの国に分かれていた。その倭人たちは貢物を持って、楽浪郡に使いを送っていた。ということになります。
日本人は当時、倭人(わじん)と言われていました。歴史の中で倭人という言葉がで出てきたら、それは日本人のことです。
弥生時代の当時は日本人同士での権力争いが絶えず、日本の中の国は100国以上に分かれていて早くも戦国時代のような感じでした。
そのため前にでてきた吉野ケ里遺跡のような、防衛のための環濠集落(かんごうしゅうらく)が多く作られたんですね。
文中の楽浪郡という場所は、今でいうと朝鮮半島の平壌(ぴょんやん)という場所にありました。ではなぜ、朝鮮半島のことが中国の歴史書に書いてあるのか?というと、この時朝鮮は中国の植民地になっていたからです。
1世紀~2世紀の日本(倭国)と、後漢書東夷伝、そして金印
次は一世紀から二世紀の日本の様子を記してある歴史書を見ていきましょう。この時もまだ弥生時代です。
一世紀と二世紀のことが書いてある中国の歴史書は、『後漢書』東夷伝(ごかんじょとういでん)です。
この歴史書には、沢山分かれている日本列島の中の一つの小さな国である奴国(なこく)という国の王が中国の光武帝(こうぶてい)に使いを送り、印綬をもらったと書いてあります。
金印のイメージ
- ※印綬=印鑑 (この時奴国の王がもらったのは金色の印鑑)
この印鑑をもらったことで、奴国の王は中国に自分の支配している土地の所有権を認めてもらったということになります。
土地を奪い合う戦乱の時代の中で、外国の王様に自分が支配している地域の支配権を認めてもらうことで支配を強めていくというやり方ですね。
そしてそのときに光武帝からもらった印鑑が、福岡県の志賀島で発見された「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と書かれた金印だと言われています。
金印を持っている人は中国の中でかなり偉い人とされています。そのため、奴国の王は中国の皇帝から相当気に入られていたということがわかりますね。
ここで一つ語呂合わせを紹介します。この出来事は57年に起こったとされているので、奴国に、こんな(57)金印と覚えましょう。
語呂合わせ:奴国に、こんな(57)金印
倭国大乱
まだ『後漢書』東夷伝は終わりません。
金印を奴国王がもらったことの次に『後漢書』東夷伝に記されていることは、107年に 師升(すいしょう)という倭国の王が生口(せいこう)を160人中国に献上したということです。
- ※生口=奴隷
師升のイメージ
(生口)奴隷のイメージ
さらに2世紀の後半には、倭国大乱という大きな戦争が日本であったこともこの本に記されています。
邪馬台国の卑弥呼と魏志倭人伝
さあ、次は皆さんも一度は聞いたことがあるであろう『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)という書物に書いてある内容を見ていきましょう。
イメージ
と言っても実は『魏志』倭人伝という歴史書はなく、三国志という歴史書の『魏書』という章の中の「東夷伝倭人」のという部分が、「魏志」倭人伝と呼ばれる部分になります。
先程出てきた『後漢書』東夷伝の時代は、後漢の滅亡によって終わりを告げます。
そして有名な三国時代が始まります。三国というのは魏・呉・蜀(ぎ・ご・しょく)のことです。この三国の中で、日本はどの国と関係を持ったと思いますか?
そうです!『魏志』倭人伝という名前の歴史書に日本のことが書いてあるくらいなので、正解は魏です。
この時に魏と交渉を行った日本の国が、邪馬台国(やまたいこく)です。邪馬台国は約30国からなる国の連合体でした。そしてこの邪馬台国の女王こそが、卑弥呼(ひみこ)です。
邪馬台国が作られることで、倭国大乱は収まるのです。
邪馬台国では、卑弥呼という宗教の教祖的存在(シャーマン)が、呪術の力を使って政治をしていました。このことを鬼道(きどう)と言います。
政治をしていたといっても、実際に政治の場に立っていたのは弟でした。卑弥呼は裏で弟を操っていたイメージですね。
そんな卑弥呼が239年に魏に使いを送るんですが、倭国も魏も互いに味方を増やしたかったので、交渉がうまくいったのです。
魏にサンキュー(239)という語呂合わせがあります。
卑弥呼が魏に朝貢することで、魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王」(しんぎわおう)という称号を与え、日本の王だということを認めた印として最高級の金印を与えました。
また、銅鏡100枚も同時に卑弥呼に与えられました。
卑弥呼の死後
卑弥呼の死後は男の王が後継者になりますが、卑弥呼のような政治はできず再び国は乱れます。
イメージ(こんな風に西洋の王冠は被っていません。)
そこで卑弥呼の親戚の壱与(いよ)という女性を王にすることで、再び乱れは収まりました。
イメージ
壱与もまた卑弥呼のように中国に使いを送りましたが、この時はもう三国時代は終わっており、晋(しん)という国が天下統一をしていました。
中国の歴史書にも、壱与は晋の都である洛陽(らくよう)に使いを送ったと書いてあります。
ここまでが弥生時代です。
次の項目からは古墳時代です。
古墳時代
3世紀中盤からは、古墳時代が始まります。
空白の4世紀
この後日本は中国の歴史書から、100年以上も姿を消します。
この消えている間は、空白の四世紀といわれます。中国の歴史書のデータがないため日本の様子がわからず空白の4世紀と呼ばれていますが、この空白の4世紀のあたりは倭国大乱のような戦争をしていたという説が有力です。
なぜなら、この時は中国も朝鮮も戦争ばっかりしていた時代だったからです。
4世紀の中国
では日本で空白の4世紀といわれていた時代、中国ではどのような争いが起こっていたのでしょうか?
まず弥生時代に壱与が使いを送っていた晋という王朝は、匈奴(きょうど)という北方の民族に攻められて南に逃げたので、東晋という小さな国になってしまいます。
そんな中北方でも中国内のさまざまな民族が争いを起こし、戦国時代のようなものが始まります。中国ではこの時代を、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)と呼んでいます。
そして最終的にこの北方の戦争で勝利をおさめ天下統一を果たしたのが、北魏という国です。北魏は中国北部の実権を握ることに成功したのです。
一方の南に逃れた東晋も宋(そう)という国に滅ぼされて、宋が中国南部の実権を握ることになります。
著作権上地図を乗せることはできませんでしたが、中国の北半分は北魏が支配していて南半分は宋が支配しているというイメージです。
4世紀の朝鮮
朝鮮半島はこの時代いくつかの国に分かれていました。
まず朝鮮の北部には、高句麗(こうくり)という国がありました。一方、南部には馬韓・辰韓・弁韓(ばかん・しんかん・べんかん)という小さな国々がありました。
国々といってもこれら3つは一つの国ではなく、いくつかの村が重なったような連合体の政権でした。
ところがこの4世紀に、この三つの国々は統一されていきます。この場合の統一というのは、3つあったものが1つになったのではなく村のような連合体だった所が、しっかりとした国になったということです。
まず馬韓は百済(くだら)に、続いて辰韓は新羅(しらぎ又はしんら)になりました。また弁韓は伽耶(かや)と呼ばれるようになり、それぞれ村の集まりのようなものから、国のようになっていきました。
ちなみにこの伽耶については、日本が影響力を持っていたので任那日本府(みまなにほんふ)という出先機関を置いたといわれています。
著作権上画像を用意することができませんでしたが、この分野は地図があるとわかりやすいので、気になる方は「4世紀の朝鮮半島 地図」で調べてみてください。
4世紀の朝鮮と日本①
この朝鮮の動乱期に日本が出兵します。その様子が、朝鮮半島の高句麗にある好太王碑(こうたいおうひ)という碑文に記されています。
朝鮮には鉄資源が豊富にありました。その鉄資源を求めて日本が出兵してきたわけです。
鉄鉱石のイメージ
なぜ鉄がそこまで欲しかったかというと、農具や武器の材料になるためです。鉄を手に入れることは力を手に入れることと同様だったのです。
少し古墳時代っぽい話をすると、このころは卑弥呼のような宗教的権威を持つ人が力を持つ時代から、武力を持つ人が力を持つ時代に変わっていった時代でもありました。
宗教<武力 の時代の到来ですね。
武力のイメージ
この後の古墳文化でも出てきますが、古墳(こふん)には副葬品というものが入っています。このころの副葬品は武器など鉄を使ったものが多いということからも、武力を持つ人が強くなったということがわかります。
さて、日本が朝鮮を攻めた話に戻りましょう。鉄を求めて出兵した日本ですが、一筋縄ではいきませんでした。
好太王碑には、日本は4世紀から5世紀の間に百済・新羅を倒して高句麗を攻めたが、日本の軍はそこで高句麗に敗れたという記述があります。
しかし、この経験は日本にあるものをもたらしました。騎馬戦法です。
日本の軍は、馬を使い戦う技術を身に着けて帰ってきたのです。その後は、日本国内でも馬を使った戦闘が増えたといわれています。
朝鮮と日本②
また、この後で出てくる須恵器(すえき)という土器や漢字、そして機織りの技術も、朝鮮半島から伝わったとされています。
須恵器
機織り
ただ、朝鮮半島といっても3つに国がわかれていましたよね?漢字などの文化は3つの中のどの国から伝えられたのでしょうか?
正解は百済です。なぜ新羅でも伽耶でもなく百済なんでしょうか。
理由は簡単。日本と百済が友好な関係だったからです。その逆に、新羅は日本と敵対関係でした。そして伽耶に関してはほぼ日本の植民地のような状態です。高句麗は上記にある通りいずれ戦うことになりますが、日本とかかわることはあまりありませんでした。
大和政権の誕生
日本では空白の4世紀と言われた時代ですが、実はこの頃の大和(今の奈良県)に連合政権が作られたといわれています。この政権が大和政権(やまとせいけん)です。
大和政権のトップにいた人は大王(おおきみ)と呼ばれていて、関西を中心に多くの地域を支配していました。
大和政権は政治連合なので、厳密には一つの国だったわけではありません。大王の周りには大王と血縁で結ばれた人達がいて、その人たちに姓(かばね)という身分を与えることでそれぞれが政治権力を握っていたのです。
氏姓制度(しせいせいど)
血縁関係で結ばれた一族のことを氏(うじ)といい、その一族のトップを氏上(うじのかみ)といます。また、その一族が信仰していた神のことを氏神(うじがみ)といいます。
与えられる姓には大きく分けて4種類あり、それぞれ臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)といいます。
権力が強い順に並べると、臣→連→君→直 という感じです。
※実はこのほかにもありますが、ややこしくなりすぎるのでこの教材で扱うのは4種類だけです。
※要点
- 臣→大和の豪族、地方の最有力豪族
- 連→特定の重要職務を行う豪族
- 君→地方の有力豪族
- 直→地方の普通の豪族
これを理解してもらった上で、ここからさらにややこしい話をしていきます。
まず臣の中で特に有力な一族は、大臣(おおおみ)と呼ばれます。同じように連の中で特に有力な一族は、大連(おおむらじ)と呼ばれます。
このようにある一族(氏)に身分(姓)を与える制度を、氏姓制度(しせいせいど)といいます。
また政治や儀式を行う朝廷の職務は、伴造(とものみやつこ)という身分である、氏族の首長が担当しました。
- ※「伴」という漢字の意味は、朝廷に奉仕するということ。
伴造は自分たちで朝廷の職務を行うのではなく、品部(しなべ)という様々なことに特化した職人集団に命令して、朝廷の職務を行っていました。
ここら辺の身分制度はまだ複雑なことがたくさんありますが、伴造が品部を支配して様々なことをさせていたという風に覚えておけばいいと思います。
この身分制度の分野は本当に複雑でわかりにくいので、何回も見直すようにしてください。
5世紀の日本と、宋書倭国伝
さて、5世紀になるとようやく中国の歴史書に日本が再登場します。日本ではこの当時、倭の五王と呼ばれる5人の王様が支配している時代でした。
5人の名前はそれぞれ、讃・珍・済・興・武(さん・ちん・せい・こう・ぶ)といいます。
- ※武は、別名雄略天皇とも言う。
画像はイメージです。日本の王は西洋の王冠なんて被っていません。
中国の歴史書の『宋書』倭国伝には、この5人の王が絶大な力を持っており、次々に中国に使いを送ってきたという記述があります。
一方、中国ではこのころ南北朝時代でした。5人の王はそのうちの南朝のほうに使いを送りました。なぜなら、北朝の側は当時の中国ではない異民族の国になっていたからです。日本と昔から交流していたほうの中国は南朝だったのです。
この5人のうちの一人である武は、中国の南朝から安東大将軍(あんとうだいしょうぐん ) という称号を授かります。
武(雄略天皇)
卑弥呼の時代もそうですが、ここまでの日本の王は中国に認めてもらうことで日本国内での権力を強めていくという戦法が共通していますね。
古墳時代の文化
古墳時代の文化を学んでいきましょう。古墳時代ということで当然古墳が出てくるわけですがここで復習です。古墳時代はいつからでしょう?
正解は、3世紀の中盤からです。この時期に権力者が自分の権力を死後も残すために墓をどんどん大きくしていったことで、古墳というものが生まれました。
古墳時代前期~中期の文化
その中でも代表的なのが、鍵穴のような形をした前方後円墳です。
古墳時代の前期から中期の間は、ほとんど前方後円墳でした。
主な前期の古墳として、卑弥呼の墓と言われる奈良県の箸墓古墳(はしはかこふん)があります。
箸墓古墳
横からの視点のため伝わりにくいですが、これも前方後円墳です。
続いて中期の古墳には、大阪府にある大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)や誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)といった古墳があります。
大仙陵古墳は別名仁徳天皇陵古墳とも言い、世界最大級の面積を誇る古墳です。
大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)
仁徳天皇
誉田御廟山古墳
とても大きな前方後円墳がほとんどですね。
このような古墳は大きくて立派なものですがお墓には変わりがないので、当然この中に亡くなった人を入れることになります。しかしこの古墳、なんと一つの古墳につき一人しか入ることができません。
こんなに大きいのにです!そうすると必然的に、人を入れる部分は一人は入れるくらいの大きさになります。
つまり前期から中期の古墳は、あれだけ大きいのに中には一人しか入っていないんです。
亡くなった人を入れる場所を、石室といいます。
古墳時代前期~中期に多く使われていた形式が、竪穴式石室です。これは読んで字のごとく、上から縦に穴を掘ることで石の部屋を作りそこに棺を埋めて、その上から石を置いて固定するというものです。
また石の部屋を作らず、棺の周りを粘土で固めて埋める粘土槨(ねんどかく)というものもありました。
亡くなった人を入れる場所は小さいのに、お墓の周りの部分はものすごくデカくするというのが特徴です。古墳に並ぶほど大きな墓といえば、思いつくのはピラミッドくらいですね。
古墳時代後期の文化
後期になると石室の形が、竪穴式石室から横穴式石室に変わります。この石室は名前の通り横に穴を掘り、そこに棺を入れ、棺を入れた場所は閉塞石という石でふたをするといった仕組みになっていました。
ふたを開ければ横からいつでも追加して埋葬することができるため、竪穴式石室と違い複数人埋葬するすることができます。
横穴式石室(蓋を取った状態)
補足:石室の通路部分を羨道(せんどう)といい、石室の奥の部分を玄室(げんしつ)といいます
このようにして一つの墓に複数人が埋葬できるようになったため、後期の古墳は豪族一人の墓ではなくなり、家族の墓になりました。
そしてこの後、古墳の壁の部分に絵を描いた装飾古墳というものも誕生します。絵が描かれている理由は邪悪なものを防ぐためだとか。
古墳の広がり
古墳が家族の墓になり入れる人数が増えると、地方の豪族たちにも古墳が広がっていきました。
一つの場所に多くの小さな古墳を作る群集墳、山の斜面に穴を掘ってそこに棺を入れるだけの横穴墓など、後期には様々な形の古墳が誕生しました。
群集墳の例としては和歌山県の岩橋千塚(いわせせんづか)、横穴墓の例としては埼玉県の吉見百穴(よしみひゃっけつ)が挙げられます。
和歌山県
(岩橋千塚がある場所の地図のみ。画像は著作権上用意できませんでした。)
吉見百穴(埼玉県)
要点 個人の墓→集団の墓
超有力な権力者しか入れない墓→→→その地域の中で権力があるだけでも入れる墓へ
副葬品の変化
古墳の中に自分の亡骸とともに入れるものを、副葬品(ふくそうひん)と言います。
まず古墳時代前期の卑弥呼の墓などの副葬品は、宗教的権威を表すような銅鏡(どうきょう)や勾玉(まがたま)などのものがほとんどでした。
銅鏡
勾玉
しかし中期になると、倭の五王のような武力を持った人が支配する時代になってきたことで、副葬品も武具や馬具のような武力を象徴するものに変わっていきました。
そして後期になると古墳は家族の墓になってきたこともあり、人々の古墳に対しての価値観も大きく変わってきます。
権力を示すもの→家族のための墓
このような価値観の変化によって、人々は「古墳とは、死後に生活をする場所なんだ。」と思うようになっていったのです。
そのため、死後に快適に生活するための日常生活に必要な土器などが副葬品として多く副葬されるようになりました。
土器のイメージ(図は五色塚古墳)
当時、土器は大きく分けて二種類ありました。
一つは、弥生時代からあるような赤褐色の土師器(はじき)というものです。これは日本の土器です。
そしてもう一つは須恵器(すえき)という、朝鮮から伝わった灰色の土器です。
古墳時代の風習
古墳時代は様々な風習ができた時代でもあります。当時は農耕社会だったため、良くも悪くも自然に左右される時代でした。また、今のようにしっかりとした法律があるわけではないので、どのような基準で人を裁けばいいかもわかりません。
そんな時人々はどうするかというと、豊作を神に祈るのです。今のように天気予報や裁判所があるわけではないのでそれしかないんです。その結果できたのが、儀式や祭りといった風習なのです。
春には豊作を祈る祈年(きねん)祭、秋には豊作を神に感謝するための新嘗(にいなめ)の祭が、それぞれ行われました。
またけがれをはらうための禊・祓、(みそぎ・はらえ)鹿の骨を焼いて占いをする太占(ふとまに)の法、裁判の際に熱湯に手を入れて熱かったら有罪、熱くなかったら無罪!のような感じで占う盟神探湯(くがたち)など、今では考えられない占いも行われていました。
禊・祓のイメージ
太占の法のイメージ
盟神探湯なんて、熱湯は必ず熱いに決まってますよね。
盟神探湯のイメージ
太占の法など一部の儀式は、現在も地域行事として行っている地域もあります。
ここまでが古墳時代です。次の項目からは飛鳥時代になります。
実は飛鳥時代は、古墳時代と被っているところがあるんですが、それは後程記述します。
飛鳥時代
6世紀から7世紀までの時代を飛鳥時代といいます。飛鳥時代の主な出来事としては、大友氏や蘇我氏などの豪族の権力争い、聖徳太子の政治、大化の改新、大宝律令制定などが挙げられます。
権力を握っていった豪族は、大友氏→物部氏→蘇我氏へと移り変わっていきます。
このころ権力を持っているのは、前の見出しから出てくる大和政権です。そんな大和政権の豪族の大伴金村が権力を握るところから始まります。
大伴金村と、継体天皇
まず大伴金村(おおとものかなむら)という豪族が権力を握るわけですが、どのようにして実権を得たのでしょうか?
イメージ
飛鳥時代初期の天皇は武烈天皇(ぶれつてんのう)という天皇でした。しかし武烈天皇は子供を作らず、後継者がいないまま死んでしまいました。
このままでは次の天皇がいないので、天皇家が滅亡してしまいます。さあ、どうしましょう。
そんな時に現れたのが、大和政権の豪族の大伴金村という人です。大伴金村は越前(福井県)に住んでいた武烈天皇の遠い親戚を探し出して、継体天皇(けいたいてんのう)という名で即位させました。
継体天皇のイメージ
継体天皇も、まさか遠い親戚の自分が天皇になるなんて思ってもみなかったでしょう。
その後継体天皇は、自分を天皇にしてくれた恩返しとして大伴金村に絶大な政治権力を握らせることになりました。
結果として天皇家が滅亡せずに済んだわけですから、天皇家にとっても、大友金村にとってもWINWINな関係になったんですね。
これが大友氏が権力を握る過程なんですが、その大伴金村がある事件を起こしてしまいます。それは、512年に任那四県を勝手に百済に割譲したことです。
これを、任那四県割譲問題(みまなよんけんかつじょうもんだい)といいます。
朝鮮半島には伽耶という地域があったのを覚えていますか?この地域は日本が大きく関わっていた地域で、実質日本の植民地でした。この伽耶の一部である任那という場所を、大伴金村が勝手に百済にあげたのです。
補足:任那といえば、日本任那府という機関を置いたほど日本が大きな支配権を持っていた場所でしたね。
この事件からわかることは、大伴金村が1人の意志で勝手に他の国に領土を渡せるほど権力がある人だったということです。ここまでできるとなると、実質大和政権の王様ですね。
磐井の乱
こんなことをしている大友金村に嫌気がさしたのか、反乱を起こす豪族が現れます。
筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の、磐井(いわい)という人です。
イメージ
- ※国造(くにのみやつこ)というのは、今でいう県知事みたいな感じです。磐井は筑紫の国という場所の知事的な存在です。
磐井は大和政権に前々から不満を持っていました。というのも、彼は九州でものすごく力のある人物であったためプライドが高く、大和政権に従うのが嫌で仕方がなかったのです。
そんな時に、朝鮮半島の新羅という国が磐井に使者を送り「一緒に手を組んで大和政権を倒そう。」という風なことを伝えます。
磐井は「新羅が味方をしてくれるなら勝てるかも!」と思い、527年、新羅と協力してついに磐井の乱を起こすのです。結果は失敗に終わるのですが、ここで一つ気になることがあります。
前述の通り、新羅と日本は敵対関係にあったはずです。なのにどうして、敵である日本の豪族と協力して大和政権を倒そうとしたのでしょうか。
実は、新羅は日本が所持していた伽耶という場所が欲しかったのです。この場所は当時大和政権が所持していました。そこで日本で内戦を起こせば大和政権が伽耶を守る余裕がなくなると考え、実行に移したわけです。
大和政権が国内の内戦を鎮圧している間に自分たちは伽耶を狙うという策略ですね。
しかし、実際はそううまくいきませんでした。大和政権の圧倒的な軍事力の前に、筑紫の国の国造磐井は倒れてしまいます。新羅や磐井の思い通りにはいかなかったのです。
物部氏の台頭
この時磐井の乱を鎮圧したのは、大伴金村ではなく物部麁鹿火(もののべのあらかい)という大和政権の豪族でした。物部氏は大和政権の中でも軍事を担当する豪族だったので強いのは当たり前です。
物部麁鹿火のイメージ
この時人々は、「大友氏より、物部氏のほうが強い」という事実に気づいたのです。
それまで権力を持っていた大友氏が磐井の乱を鎮圧することができなかったため、人々は」徐々に大伴金村を見限り始めます。これにより大友氏の権威は弱くなり、代わりに物部氏が実権を握っていくことになります。
- ※大友氏が権力を失った理由としては、前述の任那四県割譲問題も挙げられます。
蘇我氏と物部氏の対立と、大友氏の完全失脚
ここからは6世紀の中期に入ります。次はいよいよあの有名な蘇我氏(そがし)という豪族が出てきます。
大友氏が権力を失った後、物部氏は蘇我氏という豪族に政権を奪われてしまいます。一体どのようにして蘇我氏と物部氏は対立していったのでしょうか。まずは大友氏の失脚から見ていきましょう。
6世紀中期に、蘇我氏は欽明天皇(きんめいてんのう)という自分たちと血のつながった天皇をたてることで権力を握っていきました。このことにより、大伴金村は権力を失っていきます。それに追い打ちをかけるように、任那四県割譲問題も明るみに出てしまい540年に失脚してしまいました。
同じころ、なぜか蘇我氏と物部氏の関係が悪くなります。一体なぜでしょうか?
まず蘇我氏はどんな豪族だったのかというと、朝鮮から来た渡来人(とらいじん)などを家来にするほど海外のものを取り入れたがる豪族でした。そしてその渡来人が大陸から運んできたものを朝廷に与えることで権力を持ったのです。
渡来人は仏教という宗教を信仰していました。そのことから蘇我氏は「日本も仏教を信仰すべきだ!」と主張し始めます。聖明王という人が伝えた日本に仏教を取り入れたのも蘇我氏です。
☆語呂合わせ:仏教は聖明王により538年に日本に伝わり、蘇我氏が本格的に取り入れました。538(ごさんぱい)と覚えましょう。
一方の物部氏はというと、祭祀を担当する中臣氏という豪族を家来にするほど神道など伝統的な日本の宗教を信仰する豪族でした。日本の神を信仰したい物部氏にとって、海外から入ってきた仏教を信仰しろと主張する蘇我氏は邪魔な存在になるわけです。対立するのも当然ですよね…。
海外の仏教を信仰しろという蘇我氏のトップである蘇我稲目(そがのいなめ)と、日本の伝統的な神を信仰しろという物部氏のトップである物部尾輿(もののべのおこし)はこれがきっかけでやがて紛争を起こすことになります。この争いのことを、崇仏論争(すうぶつろんそう)といいます。
蘇我稲目vs物部尾輿
日本でこんなことが起こっているとき、朝鮮半島では伽耶が滅亡します。大和政権が支配していた地域が滅亡したことにより、朝鮮に対する権威を失う代わりに国内での紛争に集中できるようになり紛争はさらに激しくなっていきます。
- 562年 伽耶滅亡
蘇我稲目
物部尾輿
時代区分の集中講義①
ここで少し補足します。
上記の画像で古墳時代の政治家という風に書いてある人物がいて戸惑っているかもしれませんが、古墳時代の人物でもあり、飛鳥時代の人物でもあると思ってください。
ん?それってどういうこと?って思いましたよね。では今から少し解説していきます。
まず古墳時代とは、古墳が作られるようになった時代で、3世紀中盤から、7世紀までです。
一方飛鳥時代というのは、仏教などを中心とした飛鳥文化が花開いた時代で、6世紀から、7世紀までです。
飛鳥文化の代表例として挙げられるのは聖徳太子が建てた、世界最古の木造建築である法隆寺です。蘇我氏が仏教を受け入れていくにつれて、仏像などの仏教文化が栄えていくのです。
このようにかぶっているところがあるのでややこしいですが、飛鳥時代の文化が広がっていた時代のなかにも、古墳が作られていた時があるということです。
一般的には、古墳が多く作られていた時代を古墳時代と呼び、その時代の中で聖徳太子が政治をするようになってからを飛鳥時代と呼びます。なぜなら、飛鳥時代の登場人物である聖徳太子も、自らの古墳を作ったからです。
だいぶ話がそれてしまいましたが崇仏論争の行方を見ていきましょう。
蘇我氏の台頭
いよいよ蘇我氏が物部氏との争いに決着をつけます。6世紀後期の出来事です。
587年に用明天皇が亡くなると、蘇我氏と物部氏は次の天皇をめぐってさらに対立を深めていきます。
このときにはもう蘇我稲目と物部尾輿は亡くなっており、それぞれの息子が争っているという状況です。
WIN! 蘇我馬子(稲目の息子)vs物部守屋(尾輿の息子)
そしてこの対立は戦争へと発展します。この戦争に勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は尾輿の子である物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、さらに崇峻天皇(すしゅんてんのう)という天皇を立てることで絶大な力を持ちました。
蘇我馬子
物部守屋
しかし崇峻天皇、蘇我馬子の言うことをなかなか聞いてくれません。蘇我氏としては自分たちの言いなりになってくれる天皇が欲しくて彼を天皇にしたのに、これでは意味がありません。そう思った蘇我馬子は、592年崇峻天皇を暗殺してしまいます。
その後、蘇我氏は女性の推古天皇(すいこてんのう)を立てて、さらに力を強めていきます。
推古天皇と聖徳太子の政治
592年に即位した推古天皇は、実は日本で初めての女性天皇でした。推古天皇は甥の聖徳太子(しょうとくたいし)(別名厩戸王)に摂政(せっしょう)という位を与えることで政務を代行させました。
聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸王(うまやとおう)
聖徳太子が摂政になったのは推古天皇が即位した翌年の593年なので、
(593)国民推す聖徳太子 と覚えましょう。
聖徳太子
聖徳太子といえば、かつてはお札になったほど有名な人ですね。
推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子の3人は協力して政治を行っていたと言われていますが、実際は聖徳太子が1人で政権を握っていたようなものです。では、聖徳太子がどのような政治を行ったのか見ていきましょう。
まずは603年に制定した、冠位十二階(かんいじゅうにかい)です。この政策は個人の身分を実力に応じて12個に分けるというものでしたが、今までは個人の実力ではなく家柄のみで身分が決められるような仕組みだったので、革新的な仕組みでした。
中でも画期的だったのが、生まれた家の身分が低くても実力を挙げていけば昇進することができたという点です。頑張ればだれでもチャンスがあるという仕組みですね。
語呂合わせ:十二の冠で禄を授ける(603)
次は憲法十七条です。この憲法というのは、今の憲法みたいな法律のような意味ではなく、天皇に使える役人はこうあるべきだという心構えを示したものです。
主な内容としては、天皇の言うことを必ず聞くこと、仏教を信仰することなどです。このような政策で、豪族はすべて天皇(大和政権)に従うという仕組みを作っていきました。
憲法十七条は冠位十二階の翌年に制定されました。
語呂合わせ:十七条で労を知る(604)
小野妹子の外交
また、聖徳太子は中国(当時は隋(ずい)という名前)に遣隋使(けんずいし)という使者を送ったことでも有名です。この時隋に渡った遣隋使が小野妹子(おののいもこ)という人物です。
小野妹子
小野妹子の外交のやり方は、これまでと全く違うやり方でした。卑弥呼や倭の五王のように朝貢しなかったのです。
今までは中国の弟子にしてもらうことで自らの国内での権威を高めていくといったやり方でしたが、小野妹子は中国にへりくだり認めてもらおうとするのではなく、対等な立場で外交しようとしたのです。
その時小野妹子が隋の皇帝の煬帝(ようだい)に渡した手紙の内容がこちらです。
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
煬帝はこの手紙をどう読んだのかというと、
日出る処=これから日が昇っていく勢いのある国=日本
日没する処=日が落ちていくだけの帝国=隋
という風に読んだのです。
こんな小野妹子の態度に対し、いつものように朝貢してくれると思っていた隋の皇帝煬帝は大激怒したといわれています。これは607年の出来事です。日本はいつも朝貢するのが当たり前だと思っていた中国からすれば、「無礼だ!何様のつもりだ!」と思ったことでしょう。
語呂合わせ:(607)無礼な妹子遣隋使
これは中国側から見た語呂合わせですね。
しかし、隋が日本と戦争することにはなりませんでした。なぜなら、隋はこの時高句麗と対立していたからです。高句麗と戦争しながら日本とも戦争するという事態は何としても避けたかったのです。そこで、煬帝は怒りながらも留学生の受け入れを認めました。
結果608年には高向玄理(たかむこのげんり)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、旻(みん)らの留学生と僧が隋に渡り、隋や唐の進んだ技術を学び、この後起こる大化の改新や律令国家(りつりょうこっか)の形成にも大きな影響をもたらしました。
図)左が煬帝、右が小野妹子です。
その後、618年に中国では隋が滅び唐(とう)という新しい国が建国されます。すると日本は唐の政治体制である律令体制(りつりょうたいせい)を取り入れ、国家を運営していくわけですが、それはまだ先のお話。
蘇我氏の滅亡と大化の改新
蘇我氏の時代も終わりを告げます。いったいなぜ蘇我氏は滅んでしまったのでしょうか?その流れを学んでいきましょう。
618年に隋が滅び唐が建国されましたが、この時期の天皇は舒明天皇(じょめいてんのう)という天皇でした。また、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)が権力を握っている時代でした。
日本は唐が建国されると犬神御田鍬(いぬかみのみたすき)という遣唐使を派遣します。遣唐使を送った目的は、書物を輸入することでした。
- 630年 犬神御田鍬(いぬかみのみたすき)を遣唐使として派遣
隋が滅亡した原因に少し触れておきます。
隋が滅亡した理由は、朝鮮を支配するために朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)という国と戦争していて、国内の治安がおろそかになったからです。
遣唐使の船
舒明天皇が亡くなると、次の天皇の最有力候補となったのは山背大兄山(やましろのおおえのおう)でした。山背大兄王は聖徳太子の息子だということもあり、政治が非常にうまい人物だったそうです。しかし、ここで蘇我氏が出てきます。
山背大兄王が天皇になるのは、蘇我氏にとって好ましいことではありませんでした。なぜなら、山背大兄王は蘇我氏の思い通りに動かせる人物ではないからです。そこで、蘇我氏は舒明天皇の皇后を、皇極天皇(こうぎょくてんのう)という名前で即位させます。
一方の山背大兄王は、当然ながらこの状況に不満を持っていました。自分のほうが有能なのに、蘇我氏に邪魔され天皇になれなかったのです。
この状況は蘇我氏にとってもいい状況ではありませんでした。山背大兄王のような有能な人物が自分たちに不満を持っていると、何をしてくるかわかりません。「山背大兄王が反乱を起こすかもしれない。」そう思った蘇我氏は山背大兄王を暗殺してしまいました。
さて、皇極天皇の次の天皇候補は誰でしょう?当然、舒明天皇とその皇后(今は皇極天皇)の子供ですよね。この2人の間に生まれた子供は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と名付けられ、育てられました。
実はこの中大兄皇子、今は天皇に権力がなく蘇我氏が実権を握っているため蘇我氏の言うことを聞くしか生き残る道はないというこの状況を知っていたのです。
だからと言って蘇我氏の言いなりになっては、彼らの思うつぼです。
そこで中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)という人物と協力して、蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺しました。このことを乙巳の変(いっしのへん)といいます。
その後蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷(そがのえみし)は、もう蘇我氏は終わりだと思い自害してしまいます。
このようにして、7世紀から権力を握っていた蘇我氏の時代が終わりを告げました。
その後中大兄皇子は自分の親戚を天皇にさせることで政権を握り、蘇我氏を排斥した独自の政治改革を始めます。乙巳の変からその後の政治改革までをまとめて大化の改新(たいかのかいしん)と呼びます。
次の項目からは、中大兄皇子が大化の改新で行った政策などを紹介していきます。
中大兄皇子の政治(大化の改新)
さあ、中大兄皇子の大化の改新はまだ始まったばかりです。時代でいうと、飛鳥時代の後期に当たります。
↓大化の改新ゆかりの談山神社
中大兄皇子は乙巳の変で蘇我氏を滅亡させた後、自分が政権を握り政治を行っていくわけですが、すぐに自分が天皇になるわけではありませんでした。
中大兄皇子が乙巳の変を起こした後、蘇我氏が立てた皇極天皇は天皇を辞任します。
しかし中大兄皇子は自分が天皇になるのではなく、中大兄皇子の叔父を孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位させるという戦法を取りました。
中大兄皇子自身は天皇にならずに、皇太子というポジションに立って政治を始めるのです。
中大兄皇子が大化の改新の一環として最初に行ったのは、都を奈良県の飛鳥(あすか)という場所から、大阪の難波(なにわ)という場所に移すことです。なぜなら、飛鳥は蘇我氏の影響力が強い場所だからです。
奈良県の場所とイメージ
難波の場所とイメージ
実は当時の権力者たちは、蘇我氏のことを結構気に入っていました。昔から続いていた蘇我氏の政治がいきなり終わることは、豪族たちにとって不安なことだったのです。そこで、蘇我氏や蘇我氏が好きな豪族たちがたくさんいる飛鳥から難波に遷都することによって、蘇我氏系の豪族に邪魔をされないで済むというわけです。
中大兄皇子が次に行ったのは人材登用でした。政府の役職に様々な人材を登用していくことになります。
まず、遣隋使として隋と唐のことを学んできた高向玄理と旻を国博士(くにのはかせ)というポジションにつけます。次に蘇我氏を滅亡させた仲間である中臣鎌足を内臣(ないしん)という重要なポジションにつけます。
人事が一通り終わると、中大兄皇子は自らの政治方針を改新の詔(かいしんのみことのり)として646年に発表しました。
イメージ
語呂合わせ:(646)むしろ大化で改新しろ
改新の詔の主な内容は以下の通りです。
・土地と人民は国家が支配する。(公地公民制)
・地方の行政区画を決めて、中央集権体制を作る
・戸籍・計帳を作り、班田収授法を行う
・新しい統一的な租税制度を定める
簡単に言えば、今までは藤原氏や物部氏などの豪族が支配していた土地や人を天皇が直接支配するということです。この仕組みは天皇に権力が集中することになるため、中央集権体制といいます。
また、この体制は、唐の律令制を参考にしたと言われています。
班田収授法
ここで、班田収授法について詳しく見ていきましょう。
改新の詔の時にはまだ班田収授法が施行されたわけではなく、「こういう感じのことをやろうよ」と言っただけでした。施行されたのは692年です。
しかし、いきなり戸籍・計帳を作り、班田収授法を行うと聞いても、どういうことだかさっぱり分かりませんよね。
班田収授法のことについて知るにはまず言葉を知らなくてはいけません。
- 戸籍(こせき):氏名、続柄、性別、年齢などが書かれた台帳。6年ごとに作成しなければならない。670年に庚午年籍という初めての全国規模の戸籍ができる。
- 計帳(けいちょう):調(特産物を納める)と庸(働くか、布を納めるか)という税を取るために毎年作成された台帳
読み方:調(ちょう)、庸(よう)
当時の税である特産物と布のイメージ
つまり、2つとも税を取るための証明書ですね。今でいうと住民票みたいな感じです。
現在の戸籍
いよいよ本題に入ります。つまり班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)とは、戸籍・計帳を作り、それに基づいて与えられる口分田という田んぼを死ぬまで作り税を納め、持ち主が死ぬと国に返させるという制度です。
口分田は6歳以上の男女が年に一度もらうことができます。当時の男性は2段、女子にはその3分の2の量が与えられました。
- 1段=約10m x100m
皇極天皇が再び即位し斉明天皇に
孝徳天皇の次の天皇は斉明天皇(さいめいてんのう)です。実はこの斉明天皇、中大兄皇子の実の母であり、大化の改新の時天皇だった皇極天皇です。
斉明天皇は、皇極天皇が重祚することで即位したのです。
- 重祚:同じ人が再び天皇になること。
なぜこんなことをしたのでしょうか。
実は、前の孝徳天皇は中大兄皇子の言うことをなかなか聞いてくれませんでした。そこで中大兄皇子は、孝徳天皇が亡くなったのをきっかけに自分の母を斉明天皇として天皇にしたのです。自分の母であれば、親子喧嘩でもしない限り対立することはありませんからね。
白村江の戦い(日本vs唐・新羅)
斉明天皇の時代の出来事といえば、なんといっても白村江の戦い(はくすきのえの戦い)です。
どんな戦いかというと、簡単に言えば日本が百済という朝鮮の国を助けに行き、唐と新羅の連合軍と戦うことになったという戦いです。ではなぜ唐と新羅が同盟を結んだのか、そしてなぜ百済を助けようとしたのかというところから学んでいきましょう。
唐と新羅はなぜ手を組んだか。
まず第一に、唐と新羅が同盟を結んだ経緯についてです。唐も隋と同じように、朝鮮に進出したかったわけですが、そこで一つ邪魔な国があります。高句麗です。高句麗は朝鮮半島北部に位置するので、この国がある限り大陸にある唐は朝鮮半島に入れないのです。しかもこの高句麗、結構強い。
そこで、朝鮮半島の南東にある新羅という国と手を組むことで高句麗を挟み撃ちにして、効率よく攻めようと考えたのです。
一方、新羅にとっても大国を味方につけるのはいい条件でした。この時新羅はすでに伽耶を占領していて、次は百済を攻めようと思っていたところでした。
白村江の戦い開戦へ
そして、新羅が百済に攻めてきます。百済は日本と友好関係にあったので、日本に助けを求めました。日本も百済が滅びてしまっては朝鮮の文化や技術を吸収することができません。日本は百済を助けに行きます。これが白村江(はくすきのえ)の戦いです。
白村江の戦いは663年に起こったわけですが、百済は660年にはもう滅びていました。国自体はもう滅びてしまって、もう希望は日本しかなかったのです。
唐と新羅の軍勢にはかなわず、日本は敗北してしまいます。その結果、日本は朝鮮半島への足掛かりをなくしました。
その後の朝鮮情勢
日本との闘いに勝ち、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、いよいよ高句麗と開戦します。結果高句麗も668年に滅亡します。これで朝鮮半島は連合軍のものとなるわけですが、ここで、問題が発生します。唐と新羅のどちらが朝鮮を支配するのかという問題です。これにより同盟を結んでいた唐と新羅は対立していきます。
結果として676年、新羅はついに唐を追い出し、朝鮮半島統一を実現しました。
新羅は朝鮮半島の小さな国なのに、唐を追い出すことができるのはすごいとしか言いようがありません。
中大兄皇子が天智天皇に
白村江の戦いを終えた中大兄皇子は国内のことに集中できるようになりました。中大兄皇子はまず都を滋賀県の近江大津宮(おうみおおつのみや)に移すと、ついに天智天皇(てんじてんのう)として即位します。
天智天皇(元中大兄皇子)
ついに天皇となった中大兄皇子(天智天皇)は、中臣鎌足とともに近江令(おうみりょう)という法典を作りました。さらにこの近江令に基づいて、庚午年籍(こうごねんじゃく)という全国的な戸籍を作成しました。670年の出来事です。
天智天皇の死と壬申の乱
様々なことを行っていた天智天皇ですが、671年に亡くなってしまいます。天智天皇は死ぬ間際に、中臣鎌足に藤原という姓を授けました。これが後に出てくる藤原氏の始まりとなるのです。そのため中臣鎌足は藤原鎌足といわれることもあります。
そして天智天皇の死後、やはり問題は後継ぎです。
普通であれば天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)が次の天皇になるはずでしたが、ここでそれに反対する勢力が出てきます。
大友皇子
蘇我氏などの豪族を排斥する政治をしていた天智天皇は嫌われていました。そのため、天智天皇の息子の大友皇子が天皇になるのは、当時の人々にとっては納得のいかないことでした。息子の大友皇子もきっと天智天皇と同じようなことをすると思っていたのでしょう。
大友皇子が天皇になるのに反発する勢力は、吉野にいる天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)のもとに集まります。大海人皇子は朝廷から疎外されていたため、天智天皇とは違う政治をしてくれると期待したのかもしれません。
大海人皇子
その結果、大友皇子と大海人皇子の間で戦争が起こります。これが壬申の乱(じんしんのらん)です。
語呂合わせ:壬申の乱は672年に起きたので、壬申の乱無難に収める(672)と覚えましょう。
戦いの結果、大海人皇子が勝利します。大海人皇子は天皇に即位し、天武天皇(てんむてんのう)となります。
大友皇子vs大海人皇子(win!)
天武天皇(元大海人皇子)
天武天皇の政治
大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)で即位し、天武天皇になります。天武天皇は皇族と天皇が協力して政治を行う皇親政治というものをはじめました。天智天皇のように天皇の独裁政権ではなく、天皇と皇族が協力して世の中を収める政治をしたのです。
その一環として天武天皇が行ったのが、八色の姓(やくさのかばね)という身分制度を作ることでした。これは、天皇を神とみなしその下の身分を天皇との関係の近さによって8つの身分に分けるというものです。
そしてこの身分制度の目的は、人々が天皇に対して絶対的な忠誠を誓うことでした。
持統天皇の政治
天武天皇の死後、天武天皇の皇后が即位し持統天皇(じとうてんのう)になります。持統天皇は夫である天武天皇の遺志を継ぐ形で政治を行っていきます。
持統天皇
まずは、天武天皇が制定した飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)という法令を689年に施行します。実は、天武天皇は飛鳥浄御原令を制定したまま施行していなかったのです。それを妻が施行したということになります。
また、翌年の690年には飛鳥浄御原令に基づき庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍を作成しました。過去に出てきた天智天皇の庚午年籍と混ざらないように気をつけてください。
庚寅年籍以降の戸籍は6年に1度作成されるようになります。またこの戸籍は五比(30年)経つと廃棄されます。
補足をしておくと、庚午年籍の時代は30年たっても廃棄されることはなく、永久保存されていました。なぜなら、庚午年籍は、その人の家柄を知るためのものだったからです。当時は身分社会でしたからね。しかし、この庚午年籍は現存しておりません。
律令体制の始まり
続いて持統天皇が行ったことは、都を藤原京に遷都することでした。これは中国の都城制という都市設計のやり方をモチーフにしたものだといわれています。藤原京は天皇の住居の近くに、貴族の住居や重要な機関もあるという仕組みでした。
その後の藤原京には、持統天皇の孫の文武天皇(もんむてんのう)、続く元明天皇(げんめいてんのう)が住むことになります。
藤原京跡
藤原京の中心である藤原宮の遺跡
- 要点:難波宮→→近江大津宮→→飛鳥浄御原宮→→藤原京
さて、持統天皇の次の天皇は誰でしょう?上記に書いてある通り、持統天皇の孫であり、その夫天武天皇の孫でもある、文武天皇です。
文武天皇は701年に大宝律令(たいほうりつりょう)を制定します。この大宝律令を作成したのは、藤原不比等(ふじわらのふひと)と、刑部親王(おさかべしんのう)です。ちなみに、藤原不比等は中臣鎌足の子であり、刑部親王は天武天皇の子です。2人ともすごい権力者ですね。この律令をもとにした政治が、奈良時代にかけて70年間も続いていきます。
- 語呂合わせ:大宝律令で名を広める(701)
藤原不比等
大宝律令のイメージです。実物ではありません。
画像には奈良時代と書いてありますが、 683年- 707年まで生存していたので、飛鳥時代から奈良時代に移るときの天皇です。つまりは飛鳥時代の天皇でもあり、奈良時代の天皇でもあるということです。ただ、本教材では文武天皇は飛鳥時代の天皇として扱うことにします。
※奈良時代最初の天皇は元明天皇という女性の天皇になります。
- 奈良時代は701年~722年まで
補足:律令(りつりょう)って何?
大宝律令という言葉を聞いて、そもそも律令って何?と思った方も多いと思います。ではまず、律と令という言葉の意味から学んでいきましょう。
まず律ですが、これは人を律するという意味で、刑法を表す言葉です。わかりにくかったら、法律なんだな~みたいな感じで覚えてください。
それに対し令という言葉は、命令をするというような意味で、行政法を指す言葉です。
これらをまとめて律令といいます。わかりにくかったら、法律みたいなものだなと理解してください。
律令体制とは?
律令という言葉の意味を学んだとこで、次は律令体制が何なのかを学んでいきましょう。
先ずは教科書や参考書に書いてある言葉を使うと、律令体制とは、唐の律令制に基づいた中央集権的な体制のこと。となります。でもなんかわかりにくいですよね。
つまりは、律令という法律のようなものがあり、その法律にのっとった天皇が中心の政治を行うといったものです。
この律令というものがあるおかげで、天皇が命令を出したらすぐにそれが全国に伝わるという仕組みができます。なぜなら、天皇の命令はすぐさま律令という形になり、法律のように守らなくてはいけないものとなるからです。
今まで行ってきた近江令や飛鳥浄御原令や戸籍の作成などはすべて、律令体制を実現し、人々を効率よく支配するための足掛かりとなるものだったのです。人々を支配するには戸籍などを利用して国民の詳細な情報を知ったり、飛鳥浄御原令などの法令を出したりすることが不可欠ですからね。
要約すると、天皇が律令を利用して人々を支配する仕組み、これが律令体制です。
ここまでで、飛鳥時代は終わりです。次の項目からは奈良時代に入ります。
奈良時代
画像は、世界遺産の奈良の大仏
奈良時代は8世紀の中でも701年から722年と非常に短い時代ですが、短い期間の中に様々な出来事があり、非常に密度が濃い時代となっています。
ではいろいろな出来事っていったい何があったのかというと、藤原不比等が亡くなってからはほぼほぼ権力争いです。
この時代は藤原氏と、藤原氏ではない皇族との間の権力争いの時代でした。
藤原氏が権力を握ったと思ったら6年後には長屋王という皇族が権力を握り、また何年かしたら藤原氏になり、さらに何年かしたら藤原氏が暗殺されて・・・みたいな感じで10年もしないうちに権力者がハイスピードで入れ替わっていく時代です。
さらに、権力を握る豪族や皇族が変わると天皇も一緒に変わることもあります。豪族だけではなく、天皇も速いスピードで変わる時代でもあるわけですね。具体的には、このように豪族と皇族が椅子取りゲームをしているイメージです。
藤原不比等(中臣鎌足の子)
⇩
長屋王 天武天皇の孫 (NOT藤原氏)
⇩
藤原四子
⇩
橘諸兄 (NOT藤原氏)
⇩
藤原仲麻呂(恵美押勝)
⇩
道鏡 (NOT藤原氏)
⇩
藤原百川
私もこの分野が一番苦手でした。日本史の中でも一番ややこしい分野だと思いますが、丸暗記しようとしないでください。その出来事がどうして起こったのかということをイメージとともに理解し、歴史の流れを確実につかんでいけば、完璧にマスターすることができますからね。
「チーターの日本史」シリーズはまだ続きますが、本教材の中では最後の時代になります。
それでは、一緒に学んでいきましょう!
元明天皇と藤原不比等
奈良時代最初の天皇は、女性の元明天皇(げんめいてんのう)です。
元明天皇のイメージ
普通であれば飛鳥時代の最後に登場した文武天皇の子、つまりは後の聖武天皇が即位するはずなんですが、この時まだ聖武天皇は幼かったので天皇になることはできませんでした。そのための中継ぎの天皇として、元明天皇、続く元正天皇が即位したのです。
どうして幼いと天皇になれないのかというと、政治のことがまだよくわからないからです。この後の藤原氏の全盛期あたりになると、大人になっても政治ができない天皇も増えてきますけどね。
ではまずは奈良時代の最初の天皇である元明天皇の時代から学んでいきましょう。元明天皇の時代に権力を握っていたのが、藤原不比等です。藤原不比等といえば、中臣鎌足の子で、かつ刑部親王と協力して大宝律令を作った人物ですね。
ちなみに、藤原不比等はこの後次期天皇の聖武の祖父となります。
元明天皇と藤原不比等の時代に起きた出来事として有名なのは、708年に和同開珎(わどうかいちん)が作られたことです。この和同開珎というのは、国で統一された貨幣です。実はこの当時、今のように貨幣やお札などはなく、人々は稲や布をお金の代わりにしていました。
なぜ和同開珎を作ったのかというと、貨幣を作った自分が一番偉いんだということを世に知らしめたかったからです。今でも国を支配している機関である政府しか、お金を作ることは許されていません。お金を作るということは、それだけの権力を持っているということなのです。
- 実際にはこんなにデカくないです。今の500円玉くらいのサイズだったと思われます。
↓観光名所の和同開珎
しかしこの和同開珎、あまり流通しませんでした。なぜかというと、人々は稲や布をお金の代わりにしているこの状況に満足していたからです。
そこで、貨幣の流通を図るために畜銭叙位令(ちくせんじょういれい)というものを出します。これはお金を貯めたものには位階を与えるといったものですが、効果は今一つでした。人々がお金を貯めこんでしまうと、かえって市場に貨幣が流通しなくなるからです。
平城京(へいじょうきょう)
元明天皇は710年に都を平城京に遷都しました。平城京は唐の長安という都に倣って作られた大きな都でした。
著作権により平城京の地図を乗せることはできませんでした。できればこの項目は資料集やネットで平城京の地図を見ながら学習してくれるとありがたいです。
まず、平城京に入るには羅城門(らじょうもん)という大きな門を通る必要があります。その羅城門をくぐり、正面にある道をまっすぐ行くと、天皇が住んでいる平城宮に着くわけですが、この道のことを朱雀大路(すざくおおじ)といいます。
平城宮(へいじょうきゅう)
この朱雀大路によって左京と右京に分かれています。これは天皇から見て、つまり平城宮からみて右が右京、左が左京ということです。ですから羅城門から入った人にとっては、左が右京、右が左京ということになります。
宮城の中には天皇の生活の場のほかに様々な官庁があり、宮城にある機関だけで政治が行える仕組みになっていました。
平城京の京内には羅城門と平城宮のほかにも、薬師寺や大安寺(だいあんじ)などのお寺もありました。
薬師寺(やくしじ)
語呂合わせ:元明天皇が平城京に遷都したのは710年です。
なんと(710)大きな平城京
藤原不比等の養老律令
次に、またもや女性の元正天皇(げんしょうてんのう)が即位します。そしてこの時権力を持っていた人は、やはり藤原不比等です。
この元正天皇の時代に、藤原不比等は養老律令(ようろうりつりょう)を制定します。養老律令の内容はほとんど大宝律令と同じだといわれていますが、大宝律令は現存していないので詳しい内容はわかりません。
イメージ
大宝律令と養老律令の大きな違いは、中心となって作った人です。
- 大宝律令→→→刑部親王と藤原不比等が協力して作った
- 養老律令→→→藤原不比等1人が中心となって作った。
大宝律令は刑部親王と藤原不比等が2人で協力して作ったものですが、養老律令は藤原不比等1人が中心となって作ったものです。本当は最初から一人で律令を作りたかったのかもしれませんね。
藤原不比等の死から始まる権力争い
そんな藤原不比等ですが、養老律令を作った2年後に寿命で死んでしまいます。
当時藤原不比等は絶大な権力を誇っていました。しかし独裁的な政治を行っていたので、もちろん藤原不比等に恨みを持っていた人もたくさんいました。
そんな藤原不比等が亡くなったことで、藤原氏のことが嫌いないわゆる藤原氏アンチの皇族が「よし、藤原不比等が死んだから次は俺の番だ!」というような感じで立ち上がります。その皇族こそが、長屋王(ながやおう)です。
長屋王のイメージ
彼は天武天皇の孫です。藤原氏アンチの人々が次々と長屋王のもとに集まり、権力を握ることになりました。
長屋王の土地改革
長屋王は律令国家のある欠点を改善しようと試みます。その欠点とは何かというと、財政難です。
当時、国家は国民に今以上の重税を課していたので、浮浪・逃亡(ふろう・とうぼう)などをして税を逃れようとする国民がたくさんいたわけです。それに対応するための改革を行ったわけですが、その前に当時の税制について詳しく見ていきます。
改革の背景:律令制の税負担
当時、税は今のようにお金で納めるのではなく米や布、はたまた労働力で納めるといった物でした。この税ですが、納めるのが本当に大変です。今から税の種類を一個ずつ見ていきますが、夜逃げしたくなる気持ちもわかると思います。
具体的にどんな税があったのでしょうか?
ではまず、田んぼにかかる租(そ)という税から見ていきましょう。
租という税の内容は、田んぼ一反あたり稲を二束二把(にそくにわ)、つまり収穫量の3パーセントを納めるというものでした。これをみて、「あれ?そこまで重税じゃないじゃん」と感じたと思います。確かに3パーセントの税を納めるだけでは、何の苦労もありません。今の消費税だって10パーセントですからね。
しかし、大変なのはここからです。農民が納めないといけない税は大きく分けて5種類あります。
2つめは庸(よう)という税です。
この税は、歳役(さいえき)といって都で10日間働く代わりに布を2丈六尺(約8メートル)納めるといったものでした。つまり都で10日間働くか、布を収めるかを選ぶという税ですね。
労働のイメージ
布
3つ目の税は調です。調は特産物を納める税です。
ここまではかろうじてまだ納められそうですよね。しかし、本当の問題はここからです。
庸と調はどのように納めると思いますか?なんと都まで、歩いて納めに行かないといけないのです。このように歩いて納めに行くのも運脚(うんきゃく)といって、税の一つとなっています。今のように車がある時代ではないので、徒歩で行くしかなかったのです。
当時の都は京都ですから、人々は税を納めるために布や特産物を背負って、歩いて京都までいくことになります。京都から遠い場所の人だと何か月かかるかわかりませんし、歩いている山で遭難したり狼や熊に食べられたりするかもしれません。
これは大変すぎますね。
税はまだ終わりません。4つ目の税は雑徭(ぞうよう)です。雑徭は、国司のもとで一定期間働かなければいけないという税です。働く期間は年齢により異なりますが、正丁(せいてい)という成人男性の場合は60日間働くことを強制されます。ちなみに雑徭が課されるのは男性だけです。
労働のイメージ
5つ目の税は兵役です。兵役は国民全員が課されるというわけではなく、正丁3~4人に一人の割合で課されました。兵役の主な内容は、各地の軍団という組織に所属して訓練をすることです。
そして、そのようにして徴兵された人は都を警備するための衛士(えじ)や九州を警備するための防人(さきもり)という任務に就くことになります。この任務に就く期間は、衛士で原則1年、防人は原則3年という長い期間です。
京都
九州
さらに、衛士や防人として警備している間、その期間の食料や武器は自分で用意しなくてはいけませんでした。過酷ですね。
ちなみに、このように人が働くことで納める税をまとめて人頭税といいます。
※図の中にある文字は関係ありません。
どうでしたか?信じられないくらいの負担ですよね。それでは、農民が負担しなければならない税の要点を復習していきましょう。
農民の税負担は大きく分けて5つありましたね。
- ① 租:田んぼ一段につき、稲を二束二把(収穫量の3%)を納めること。
- ② 庸:都で10日間働く代わりに、布を二丈六尺(約8m)納めること。
- ③ 調:自分が住んでいる地域の特産物を納めること。
- ④ 雑徭:国司のもとで、60日間(約2か月間)働くこと。
- ⑤ 兵役:正丁の3~4人の一人の割合で徴兵され、その中から1年間衛士として京都を警備するか、防人として3年間九州を警備するかのどちらかの任務に就かされること。
律令国家は、人々にこんなに重い税を課すことで成り立っていたのです。あの大きな平城京ができたのも、人々がたくさん税を納め国に協力したからです。
この税負担の重さが後々律令体制崩壊の原因となるのですが、それはまだ先のお話。
長屋王の時代はまだ律令体制崩壊はしません。
さて、話がだいぶそれてしまいましたが本題に戻ると、上記のような非常に重い税に耐え切れなくなり夜逃げする人が多発するわけです。当然、そんなことをされては国家の税収が減ってしまい非常に困ります。
そこで、長屋王は税収を上げるために様々な土地改革を始めるのです。
722年 百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)
長屋王は大きく分けて2つの土地改革を実施しました。一つ目は、722年に出した百万町歩開墾計画です。
この政策の内容を短くまとめると、とにかくたくさん農地を開墾しよう!ということです。
なぜこんな改革をやったかというと、土地を増やしまくれば、税収も増えるからです。しかし、この改革は失敗に終わります。当時の一般国民の立場になって考えれば当然です。土地を開墾したってなんの見返りももらえず、納める税が増え、生活が苦しくなるだけですからね。
723年 三世一身法(さんぜいっしんほう)
2つ目の改革は、723年に出した三世一身法です。目的は以前と同じく、より多くの土地を開墾させることですが、長屋王は前回の反省を踏まえて、土地を開墾した人には褒美として一定期間の所有を認めるという決断をしました。
一定期間とは、土地を開墾した本人,子,孫の3世代までです。
土地と国民はすべて天皇のものであるというのが中大兄皇子の時から続いてきた考え方なので、この時代にしては思い切った政策だといえます。
まとめると、土地を開墾した人の孫が死ぬまではその土地を国家のものではなく個人のものにできるというのが、三世一身法という改革です。
しかし表向きだけ私有が認められたといっても結局は税を納めないといけないので、国が管理しているのと一緒でした。それに田んぼを作るために水をひいたりするのも大変ですし、孫の代まで所有したら国家に返さなくてはいけないというのも、当時の国民はあまり納得がいかなかったそうです。
三世一身法で土地の所有を一定期間認めるというのは税を納めさせる口実に過ぎなかったわけです。そんな感じで、この改革もやはりうまくいきませんでした。
聖武天皇の即位と、権力闘争の始まり
さあ、ここでようやく聖武天皇(しょうむてんのう)が即位します。前の元明天皇と元正天皇は、聖武天皇が成長して政治ができるようになるまでのつなぎの天皇でした。
724年、聖武が成人したことで、ようやく男性の聖武天皇が誕生するわけです。聖武天皇は文武天皇の子供です。「武」という文字が同じなので覚えやすいですね。
さて、ここからが本番です。なんと聖武天皇の祖父に当たる人物は、藤原不比等だったのです。ということは、聖武天皇は藤原氏の血を引いているということになります。その結果、なんとまた藤原氏が権力を持つことになります。
藤原不比等は4人の子供がいたので、藤原四兄弟全員が権力を持つことになります。
- 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
- 藤原房前(ふじわらのふささき)
- 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
- 藤原麻呂(ふじわらのまろ)
この藤原四兄弟に目を付けられたのが長屋王です。そういえば長屋王は藤原氏アンチでしたね。こんな人が権力を持っているのは、藤原四兄弟にとって当然好ましいことではありませんでした。
そこで藤原四兄弟は長屋王に謀反(むほん)の罪、つまり裏切ろうとした罪を着せて自殺に追い込みます。これを長屋王の変といいます。729年の出来事でした。
ここから権力闘争の始まりです。藤原氏と、藤原氏アンチの皇族が交互に権力を握っていく時代になります。短期間のうちに権力者が移り変わっていくので注意してください。
長屋王を排除した藤原四兄弟達は、自分たちの妹の光明子(こうみょうし)を皇后として聖武天皇に嫁がせ、さらに権力を拡大していきます。
しかしこの藤原四兄弟ですが、天然痘(てんねんとう)という病気によって全員亡くなってしまいます。天然痘というのは、当時の流行病で不治の病みたいなものです。今でいうと新型コロナウイルスのようなイメージですかね。暗殺されたわけではないので注意です。
橘諸兄政権の誕生と藤原広嗣の乱
藤原四兄弟が相次いで亡くなるとその隙を狙って、今度は藤原氏アンチの橘諸兄(たちばなのもろえ)という皇族が出てきます。
橘諸兄
橘諸兄は吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)を国家の重要な役職に置くことで、日本をさらに律令国家に近づけようとしました。
吉備真備
吉備真備と玄昉といえば、二人とも遣唐使として唐に派遣された人物ですね。唐から直接律令を学んだ彼らであれば、唐の律令制に近い形を作れると考えたのでしょう。
橘諸兄が目指していた律令体制とは、簡単に言えば天皇が大きな権力を握り藤原氏などの豪族を排除した中央集権的な政治をするというものでした。
しかしながら、現実はそううまくはいきません。橘諸兄が思うような政治をされては、藤原氏が困ります。「橘諸兄の思い通りにはさせまい!」と、藤原氏が邪魔をしてくるのです。
先程亡くなってしまった藤原四兄弟のうちの藤原宇合の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州の太宰府(だざいふ)という場所で反乱を起こします。藤原広嗣の乱です。藤原広嗣の目的は、吉備真備と玄昉を政界から追い出して橘諸兄が理想とする律令体制の実現を防ぐことでした。
しかしこの藤原広嗣の乱は鎮圧され、藤原広嗣は亡くなってしまいます。
鎮護国家と墾田永年私財法
この反乱がおきたことで、当時の天皇である聖武天皇は「もしまた反乱が起きたら、今度こそ自分が殺されてしまうんじゃないか…。」という強い不安感に襲われます。
そこで、聖武天皇は何を思ったのか平城京→恭仁京(くにきょう)→難波宮→紫香楽宮(しがらきのみや)という様に次々と都を移します。詳しい理由は不明ですが、次々と都を移すことで皇族たちに今は国家の緊急事態だということを知らせようとしたという説や、単純に藤原氏から逃げようとしたなど様々な説があります。
- 補足:平城京(奈良県)→恭仁京(京都府)→難波宮(大阪府)→紫香楽宮(滋賀県)
聖武天皇の不安はまだ収まりません。そこで聖武天皇は「仏教の力を使えば国が平和になるかもしれない!」と思うようになりました。これを、鎮護国家思想(ちんごこっか)と言います。
鎮護国家を作る一環としてまず聖武天皇が行ったのは国ごとに国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)というお寺を作らせることでした。これを国分寺建立(こくぶんじこんりゅう)の詔といい、741年に出されました。
また743年には中央(当時は奈良県)に大きな大仏を作らせる、大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔が出されました。こうしてできたのが東大寺にあるとても大きな大仏ですね。
あなたも一度は修学旅行で見たことがあるのではないでしょうか。
ところで、こんな大きな大仏はどうやって作ったと思いますか?もちろん、聖武天皇が一人で作るわけがありませんよね。農民に作らせたのです。あんな大きな大仏を作るとなると、相当過酷な重労働ですよね。
その代わりといってはなんですが、聖武天皇は同じ年(743年)に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)という法令をだして開墾した土地を永久に私有することを認めました。
- 要点:百万町歩開墾計画→→→三世一身法→→→墾田永年私財法
語呂合わせ:おなじみ(0734)永年私財法
これは天皇が土地と人民を支配するという公地公民の原則が無くなっており、長屋王や橘諸兄が作り上げてきた律令体制が崩壊していることを意味しています。
孝謙天皇の時代
聖武天皇が天皇を退位して上皇という位になると、聖武天皇の娘が孝謙天皇(こうけんてんのう)という名で即位します。もちろん孝謙天皇は女性の天皇です。女性が即位した場合には天皇を補佐する人が大きな権力を握ることになります。そこですかさず出てきて権力を握ったのが、これまた藤原氏の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)です。
孝謙天皇のイメージ
実は孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇太后の娘でした。光明皇太后といえば、もとは藤原氏が皇后にした光明子という人物でしたね。つまり、孝謙天皇は藤原氏と血がつながっていたのです。その結果として、藤原仲麻呂が権力を握ることになったのです。
藤原仲麻呂のイメージ
また、光明皇太后は孝謙天皇のお母さんですから、自分と血のつながりのある藤原氏に娘の政治の補佐を頼んだことも理由として挙げられます。
- 要点:上皇というのは、天皇が位を譲った後に就く役職のこと。
さて、前の項目まで出てきた橘諸兄はどうなったのかというと、756年に聖武上皇が亡くなってからは権力が衰え、政治への影響力がほとんど無くなってしまいました。
こんな状況に不満を持ったのが、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)です。橘奈良麻呂は757年に反乱を起こしますが、失敗して捕まってしまいます。これが橘奈良麻呂の変です。
橘奈良麻呂のイメージ(右)
これで藤原氏の邪魔をするものは誰もいなくなったので、藤原仲麻呂の権力はさらに大きくなっていきます。すると藤原仲麻呂は、自分のおじいちゃんである藤原不比等が作った養老律令を施行します。実は養老律令が作られた直後に藤原不比等は死んでしまったので、作られただけで施行されたわけではなかったのです。
藤原仲麻呂の勢いはまだ止まりません。藤原仲麻呂は藤原氏に友好的ではない孝謙天皇を辞めさせて上皇にし、代わりに淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を天皇にします。藤原氏の都合で勝手に天皇から引きずり下ろし上皇にすることができるなんて、すごい力ですね。
しかし、元孝謙天皇は、孝謙上皇として政界に残っています。そして勝手に天皇を辞めさせられ上皇にされた孝謙上皇は、今か今かと復讐の機会を狙っていました。このことを忘れてはいけません。
恵美押勝の乱
そんな孝謙上皇にチャンスが訪れます。光明皇太后が亡くなったのです。藤原仲麻呂は光明皇太后のおかげで権力を握った人物なので、光明皇太后がいなくなったらまずいわけです。
この時孝謙上皇は、自分の病気を治してくれた僧侶である道鏡(どうきょう)に力を持たせていました。
道鏡のイメージ
一方、藤原仲麻呂は孝謙上皇が自分のことをよく思ってないということをわかっていました。そこで、孝謙上皇が溺愛している道鏡を政界から追い出そうとして764年に乱をおこします。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱です。恵美押勝というのは、藤原仲麻呂が淳仁天皇から与えられた名前です。
- ※恵美押勝=藤原仲麻呂
恵美押勝(藤原仲麻呂)&淳仁天皇vs道鏡&孝謙上皇 WIN!
恵美押勝の乱で勝ったのは道鏡&孝謙上皇の陣営でした。負けた藤原仲麻呂は戦死し、淳仁天皇は兵庫県の淡路に流されてしまいます。淳仁天皇は淡路に流された天皇ということで、淡路廃帝と呼ばれました。
兵庫県
道鏡と孝謙上皇の時代
恵美押勝の乱に見事勝利した孝謙上皇は、称徳天皇(しょうとくてんのう)という名前で再び天皇に復帰し、権力を握ります。そして、その称徳天皇に気に入られている道鏡はどんどん出世していき太政大臣禅師・法王(だいじょうだいじんぜんじ・ほうおう)という立場に付きます。
道鏡はこの立場を利用し、寺院以外の開墾を禁止するなど仏教を優遇する政策をとりました。765年の加墾禁止令です。
しかし、そんな道鏡の覇権もそう長くは続きませんでした。称徳天皇の具合が悪くなったのです。道鏡は称徳天皇のおかげで力を手に入れたので、その称徳天皇が亡くなってしまっては非常にまずいわけです。
そこで道鏡は、自分自身が天皇になるということを考えます。バックアップしてくれる天皇がいなくなっても、自分自身が天皇になれば問題ないと思ったのでしょう。
そこで道鏡は、宇佐神宮(うさじんぐう)という神社から道鏡を天皇にしろというお告げが来ているというデマを流します。今まで神社が天皇になる人のお告げをしたことはなかったので、皆は道鏡に疑いの目を向けます。
宇佐神宮
このお告げに疑問を抱いた朝廷は、和気清麻呂(わけのきよまろ)という人を宇佐神宮に派遣して真偽を確かめさせました。するとどうでしょう。道鏡を天皇にしろというお告げはデマだったということが発覚したのです。この際道鏡は和気清麻呂に圧力をかけましたが、和気清麻呂はそれに屈することなく事実を述べたようです。
和気清麻呂像
このようにして、天皇の座を狙っていた道鏡の計画はことごとく失敗します。怒った道鏡は、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という名前に改名させて大隅国(鹿児島)に左遷します。道鏡がデマを流し皇位継承しようとしたこの事件を宇佐八幡信託事件(うさはちまんしんたくじけん)といいます。
- 769年 宇佐八幡信託事件
鹿児島県
そして最後は藤原氏へ…
この事件の翌年、称徳天皇が亡くなります。称徳天皇を失った道鏡にはもう権力がありません。
次の天皇には天智天皇の孫である、光仁天皇(こうにんてんのう)が即位します。光仁天皇を天皇にしたのは藤原百川と藤原永手(ふじわらのながて)です。彼らが権力を持つと770年には道鏡を下野薬師寺(しもつけやくしじ)に左遷し、道鏡が制定した加墾禁止令を廃止します。
下野薬師寺跡
さらに、墾田永年私財法の時に出された、位階による開墾数の制限も撤廃します。
言い換えれば、だれでも好きなだけ自分の土地を持っていいということです。このようにしてできた土地を荘園(しょうえん)といいます。いわゆる私有地の始まりですね。
そうなると当然、藤原氏のようなお金持ちは荘園をいっぱい持つことができるようになり、貧乏な人はその下で働くなどといった世の中になることで、貧富の差が拡大していきます。
そういえば今でも経営者などのお金持ちは、大きな土地を持ってますよね。
- ※荘園=私有地
このようにして荘園をたくさん手に入れた藤原氏が権力を握る時代が、次の平安時代です。
奈良時代はここまでです。次の項目からは平安時代に入ります。
お疲れさまでした!チーターの日本史(旧石器時代~奈良時代編)はここまでで終了となります。
特典の、いつでも手軽に学べる、チーターの日本史pdfは、下記のurlから。パスワードは「奈良の大仏」
PDFファイルをドライブや端末に保存すれば、いつでも手軽に学習することが可能です。リンク切れが心配されるので、できるだけ早めに保存することをお勧めします。
最後までご覧いただきありがとうございました。
続きはこちら↓
【期間限定で50%OFF】お得な通史セットはこちら↓
※本教材を無断で複製・複写・転載すること及び、本教材の内容を第三者に譲渡・公開することを禁じます。