― プロローグ:鬼首の伝説 ―
宮城県の山深くに、雪に閉ざされた小さな村がある。

その名も「鬼首村(おにこうべむら)」。地図には存在するが、一般にはほとんど知られていない。冬の間は雪に埋もれ、春になっても山道がぬかるみ、外界から隔絶されることが多いこの地には、ある古い伝説が語り継がれていた。
その昔――戦国の世のこと、山中に逃げ延びた落ち武者の一団がこの地にたどり着いた。彼らは村の者たちに追われ、あるいは匿われながらも、やがて村に災いをもたらしたという。
村に残る古文書『鬼首記』にはこう記されている。
「鬼、首をもがれしとき、声をあげて笑いぬ。其の笑い、三夜をこえて村に響きぬ――」「その首、地蔵に宿り、己が無念を語りしと云ふ」

これが鬼首村の名の由来であり、同時に村人たちが最も恐れる禁忌の伝説でもある。
村の外れには「首なし地蔵」と呼ばれる石像がある。雪が降ろうと風が吹こうと、その場所だけは不思議と雪が積もらないという噂があった。そして、地蔵の首を探しにいった者、あるいは首を供えようとした者は、必ず行方不明になる――。
昭和中期、地元の新聞が「鬼首村の怪」としてこの話を取り上げ、一時は心霊スポットとして若者の間で知られるようになったが、村人たちは強く取材を拒み、やがて再び静寂の中へと戻っていった。
だが、平成も終わり、令和になったある年の冬――その地で、恐ろしい事件が起こる。
古民家を再利用した民宿「雪鬼庵(せっきあん)」に集まった数人の客たち。その中に、ある作家と編集者、地元出身の大学教授、そして旅の探偵がいた。
事件の幕開けは、一通の封筒だった。
封筒にはこう書かれていた。
「鬼の首が、今宵、再び落ちる。最初の者は、紅(くれない)に染まりぬ。」

この一文を境に、閉ざされた村で再現される“鬼の伝説”。
果たしてこれは古の祟りか、人間の悪意か。
そして、封鎖された雪の中で次々と命を落とす者たち――。
探偵・柊真一(ひいらぎ しんいち)は、この忌まわしい地にて、数百年の時を越えた謎に挑むことになる――。
第一章:呼ばれざる客人
東京から新幹線とローカル線を乗り継ぎ、さらに車で山道を登ること一時間半。峠を越えるたびに雪が深くなり、やがて景色はまるで時間を巻き戻したかのような白銀の世界に変わっていた。
その村は、山奥の狭い谷にひっそりと存在していた。
柊真一――30代半ばの私立探偵。鋭い目元に整った顔立ち、無精髭をたくわえ、どこか影を帯びた風貌が特徴の男だった。

東京では事件の解決率の高さで知られていたが、ここ最近は表舞台から遠ざかっていた。
「……なるほど、これが“鬼首村”ってやつか」
助手席の地図を見ながら彼が呟くと、運転していた男がニヤリと笑った。
「探偵さん、初めて来るにはずいぶん妙な季節を選びましたね。こっちはもう、しばらく雪に閉じ込められるってのに」
村出身のタクシー運転手――田代。彼は冬の間だけ帰省しており、村の外れにある民宿「雪鬼庵」までの案内を買って出てくれていた。
車はカーブを曲がり、森を抜けると、古びた木造家屋が現れた。それが今回の舞台、「雪鬼庵」だった。
築百年を超える古民家を改築したというが、雪に包まれたその姿は、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。
「……ここが、あの伝説の舞台か」
柊は車を降りると、静かに深呼吸した。空気は凍てつき、辺りは人の気配すらない。
玄関先にはすでに数人の人影があった。
「おや、あなたが柊さん? ようこそいらっしゃいました」
出迎えたのは、白髪交じりの品のある初老の男性だった。
「私はこの雪鬼庵の主、矢萩光一(やはぎ こういち)です。古い宿ですが、どうぞくつろいでください」
「どうも。お世話になります」
軽く会釈を交わし、柊は玄関をくぐる。中は意外にも暖かく、囲炉裏の香りが鼻をくすぐった。
「もう何人かいらしてますよ。こちらへ」
案内された囲炉裏の間には、すでに三人の客が集まっていた。
一人は、文学雑誌『月影』の編集者である若い女性――香取美佳(かとり みか)。快活な性格で、柊を見るとすぐに立ち上がり、手を差し伸べてきた。

「柊さんですね! お噂はかねがね。今回の件、編集部としては非常に興味深いです」
もう一人は、50代半ばの厳めしい顔立ちの男――柳田修造(やなぎだ しゅうぞう)。民俗学の権威であり、「鬼首村伝説」に関する著作をいくつも発表している。
「ふん……素人が来ても、伝説の本質は理解できんぞ」
彼は柊に冷たい視線を向けたが、柊は気にも留めなかった。
そして最後の一人――小説家の南条静馬(なんじょう せいま)。痩せぎすの体に黒縁眼鏡をかけた沈黙の男で、昔から“人を喰った”ような物書きとして知られていた。
「……ふふ、名探偵のお出ましか。これで事件が起きる布石は、すべて揃ったわけだ」
妙なことを言いながら、彼は囲炉裏の薪をくべていた。
その晩、全員が集まると、宿主の矢萩は宴を開いた。地元の山菜や川魚、漬物、酒……食卓は賑やかだった。
そして、宴の終盤。ふいに電気が一度だけパチンと消え、再び灯ったとき、囲炉裏の横に一通の封筒が置かれていた。
誰も見ていなかった。誰が置いたのかすら、わからなかった。
香取が封を開けて、震える声で読み上げる。
「鬼の首が、今宵、再び落ちる。最初の者は、紅に染まりぬ」
一瞬、部屋が静まり返った。
笑う者もいなかった。空気が、変わったのだ。
それは、遊び半分の肝試しでもなければ、創作でもない。 誰かが、ここに集まった“客人”を狙っている――。
そして、その夜。 柊は廊下の奥から聞こえた“うめき声”に目を覚まし、ふらりと部屋を出た。
灯りを持ち、階段を下りると――。
玄関の土間に、血まみれの男が倒れていた。
南条静馬。喉を裂かれ、まるで何かに首を落とされたかのような姿だった。
その傍らには、赤黒い染みがついた和紙の切れ端が残されていた。
そこには、こう書かれていた。
「一の首、落ちたり。次は“笑う地蔵”なり」
外はすでに吹雪。
村へ続く道はすべて雪で封鎖され、電話も電波も届かない。
そして――ここには“もう一人”、客人がいたことが判明する。
それが、「名簿に存在しない謎の宿泊者」だった。