“話を聴く側”が抱える「もらいやすさ」について 共感力の高さから心理カウンセラーを目指した結果

寄り添わない心理カウンセラー【Y】:代表
こんにちは🍵 共感力が高いという人には寄り添わない心理カウンセラー【Y】です
「共感力が高い」と言っている人ほど、共感の意味や共感の使い方を間違ってます
共鳴です
疲れるのは「優しいから」ではなく、境界が崩れているから
誰かの相談を受けたあと、どっと疲れる その人の気持ちが頭から離れない なぜか自分まで落ち込んでいる
そうなると、人はすぐ「自分は共感力が強すぎるから」と言い訳する でも、それは共感力の問題ではなく、境界線の管理ができていないだけだ
他人の感情が入り込みすぎている時点で、自分のメンタルは“開けっ放し”になっている そこに「優しさ」も「才能」も関係ない ただの準備不足と、切り替えの欠如だ
そして、「私はもらいやすいタイプだから…」と自分語りを始める人ほど、感情の責任を放棄している それは、相談された内容以上に、自分の未処理の感情に反応しているだけだったりする
「もらいやすい人」に起きているのは“共感”ではなく“巻き込まれ”
・相手の不安や怒りが、自分の感情のように感じられる・相手が言ってない事まで想像する・その話が終わった後も、頭の中で反芻が止まらない・自分にできることがあったのでは?と、何度も自問する
こういう状態は、共感しているように見えて、実際は感情に巻き込まれて支配されている状態、共鳴だ それを「優しさ」と呼ぶのは甘い 自分の足場がぐらついているだけだ
共感は“自分と他人を区別した上でつながる”こと 区別できていないなら、それは共感ではなく自己境界の崩壊にすぎない
「もらいやすい性格」は、単にコントロールの練習不足
・感受性が高い ・人に頼られる ・「私がなんとかしなきゃ」と思ってしまう ・相手のために自分を後回しにしがち
これを“良い人”で片付けるな それらは「他人の感情に呑まれる癖」と言い換えられる そしてそのままでは、ただの危うい人になる
特に支援職や心理職を志す人で、この癖が抜けないのは致命的だ 自分が何を引き受けるかを意識せずに話を聴くなら、それは「聴く」ではなく「溺れる」になる
「もらわないため」の技術も、心の筋トレである
・話を聴いたあとに、自分の状態を確認する ・呼吸・身体・ノートなど、意識の“外部化”を習慣にする ・「これは私の感情ではない」と、言語で区別する ・人の話を聴く前に、「どこまで関与するか」を自分で決めておく・相手の言葉を感情で受け取らない
これらは気休めではなく、対人支援を続けるための生存戦略だ精神的な筋力がないまま「誰かを支えたい」と言うのは、ただの理想主義でしかない
感情の汚染は、無意識に起きるだからこそ、意識的にメンテナンスするそれができないなら、他人の話は聴かないほうがマシだ
「共感すること」と「一緒に沈むこと」は完全に別物
相手の苦しみに反応して、自分も苦しくなる それは同じ場所に沈んでいるだけで、支援でも寄り添いでもない 単に“情緒的に共倒れしている”だけだ
必要なのは、別の場所に立ったまま、相手を見ている視点 感情に入り込まずに「どうサポートするか」を冷静に判断できること そこには、“一定の距離”と“冷静な観察”が必須となる
共感とは感情移入ではない 共感とは関与しながら、巻き込まれない態度だ それができないなら、「他人の話を聴く資格」はまだ持っていない
「もらってしまう自分」への甘えを手放せ
・また引きずった ・もっと割り切れる人になりたい ・こんなにしんどいなら、距離を置こうかな
そう思うたびに、「自分は優しいから」と思ってないだろうかだとしたら、それはただの思考停止だ
もらいやすさは才能ではない管理されていない感情の通路だそれを「個性」と言い続けている限り、自分も周囲もすり減らし続ける
守るべきは感受性ではない感受性をどう扱うかという、技術と意識の話だ「傷つきやすい」ことに酔っている暇があるなら、鍛え方を学べ
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