学校のいじめ問題に対してしきり
「監視カメラの必要性」
を叫んでいるSNSの教員がいるんですが
「本当に必要なのそれだけですか?」
と問いたいです
まず、「予防的」、「支援的」、「治療的」な観点がなければ監視カメラをいくつ設置しても、警備員をいくら雇っても成り立たない
いじめに発展する前に、就学指導や引継ぎ
クラスづくり
教員の知識や技術向上
の段階から見直さなければ、カメラやいじめ対応専属の教員もしくは専門職を配置しても機能しないと容易に予想できます

この事件のケースでもスクールカウンセラーが
「加害者と被害者が同じ学校にいるような状況を作るべきではない」
と進言しているにも関わらず、加害者が登校を始め、被害者が学校に行けなくなっていると聞き及んでいます
教員の倫理観や知識なさ故、見通しが立たず、もしくは管理職の独断か、構造の機能不全で起こった事例の一つなのです
そして、いじめ加害者の背景、生育歴などを洗い出し、お子さん、保護者への支援、治療的なアプローチにつなげる構造をつくらなければならないことも抜け落ちています
本当なら学校を「聖域化」せず様々な関連施設、支援者と連携を図った上で信頼され、はじめて「いじめ対策をやっている」
と胸を張って言えるのではないでしょうか? 現状できていますか?これ
教員本来の専門性を無視してカメラを武器にし、まず保護者と闘う姿勢をまず表に出すこと自体が、今の教員の質の低さの表れでしょう
また、教員が口をそろえて
「いじめを隠蔽するメリットがない」
というのも私は違和感を覚えます
教員が「いじめを隠蔽するメリットはない」と語るとき、それは制度上の建前や倫理的な立場からの発言かもしれません
でも、実際の現場では
「いじめを認定することによって発生する業務負担」
「学校全体の評価への影響を避けたい」
という「無意識の動機」や「悪意」が働いていることもあります
例えば、いじめを正式に認定すれば、
報告書の作成
保護者対応
教育委員会への報告
再発防止策の検討と実施
などの膨大な業務が発生するのは避けられません
すでに多忙な教員にとっては大きな負担以外の何物でもないです
「いじめがなかったことにできれば、余計な仕事が増えない」
という「メリット」が、結果としていじめの隠蔽や問題の過小評価・矮小化につながることがあるのです
「めんどくさい対応しなくていいので仕事が増えない」
「自身の肉体的、精神的に負担がかからない」
というメリットが発生しているのです
広陵高校や北海道などのケースも学校側にそういう意識があったのではないでしょうか?
ないというなら、なぜなかったと言えるでしょうか?
これは福祉の目線からではありますが…
この構造は、学校における「発達支援をしない理由」とも共通しています
お子さん発達特性に気づいても、それを支援に結びつけるには、アセスメント、関係機関との連携、個別の支援計画の作成、保護者との情報共有など、やはり多くの手間がかかります
つまり、「気づかないふりをする」「やらない」ことが、短期的には「楽で」で「波風が立たない」選択肢となってしまう
内部評価がある
それが出世に影響する
私はこれが「今は」あるとも思っていませんし、いじめの隠蔽の動機になるとは思っていません
教員全体がいじめを隠蔽をしている、対応していないとも…
しかし、少なくとも「隠蔽は起こっている」ベースで考えないと問題解決につながらないでしょう
実際に事は起こっているんですから…
SNSの教員の反応を見ていると
「隠蔽するメリットはない」という主張を見かけますが、
「じゃあ実際に起こっているこれは何?」
という感想です
「自分達の身に何が起こっているのか」という意見よりも「私たちは悪くない」という保身の姿、主張が目立ちます
こういうのをみていると
「社会全体が評価するには教育界隈はあまりにも透明性が薄い」
とも私は考えます
この「透明性の薄さ」も問題解決を遅らせる土壌の一つなのではないでしょうか
「構造的な問題」を指摘する声もありますね
様々な業務が積み重なり、そこに新たな業務が積み重なる構造
個人を犠牲にした負担が一極化し、長時間労働になる構造
こういった構造は確かにあるでしょう
ただ、教育界隈を長年福祉の側から見続けた私としては、
「できる」と言い抱え込み、結果できずに子どもも保護者も傷つけ、連携先からも距離をとった
「教育界の負の聖域化」
のなれの果ての構造だと考えます
本来数十年単位で積み重ねてくるべきだった経験、作り上げていくべき構造、それがベースとしてない…
「絶対に教員だけでは無理だから連携していきましょう」
という声を突っぱねられてきた側からすれば、今回の爆発的な批判も当然の帰結なのだとも…
