


いじめの件数は年々増え続け、重大事態も過去最多を更新しています
文部科学省が公表した最新調査では、
2024年度のいじめ認知件数が769022件
に達し、重大事態も1405件
過去最多です
最近のニュースでは


など、知識不足や対応の遅さ、挙句の果てに隠蔽、放置と捉えられるような対応を行い、後にそれが発覚する事案も発生しています
この現状は、単に
「いじめへの認知が進んだ」
「いじめを発見できるようになってきた」という説明では到底片づけられない、片づけてはいけない状態にあると、社会からみられても何もおかしくはありません
今回の
「SNSでのいじめ、暴行の暴露」
社会からの一層「教育界隈」への風当たりを強くし、注目を浴びているのではないでしょうか
オンライン空間でのいじめは、教員のデジタルリテラシーの不足によって発見が遅れ、子どもたちの間で広がりやすくなっています
タブレット教育の始まりからしてそうですが、対応が後手に後手に回り過ぎですし、教育委員会、文科省も「始めて問題が起こってから考える」といった思考が透けて見えるような動きでした
SNSを介した「いじめ」は潜在化しやすく、
2023年度のネットいじめ認知件数は24678件で過去最多です
LINEグループからの排除ゲーム内での誹謗中傷動画の拡散
子どもたちの生活圏が大きく変化している、させたにもかかわらず、学校側はその変化に追いつけていないのは明らかに構造的欠陥があるとしか思えません
直近で書いた記事の引用ではありますが…
SNS上で「いじめ告発」が行われる場面を見るたびに感じるのは、
そこに至った時点で多くのケースがすでに「手遅れだ」ということです
本来であれば学校や周囲の大人、同級生、地域の誰かがもっと早く気づき、介入し、被害者が孤立して極限まで追い詰められる前に支えなければならなかったはずです
しかし現実には、被害者が声を上げても届かない、相談しても軽視される、あるいは「事を荒立てるな」と抑え込まれる…
そうした積み重ねの果てに、最後の手段としてSNSでの告発に踏み切る人がいるのだと思います
告発が起きると、「いじめを拡散する人間も加害者だ」「加害者の人生を終わらせるつもりか」
といった言葉が必ずと言っていいほど飛び交います
それも事実ではあります
しかし、そこに倫理や良心を持ち出しても、告発者にはもはや響かないことがほとんどです
なぜなら、告発の目的そのものが「相手の人生を終わらせるつもりか」という問いに対して、ある意味「その通り」
復讐だからです
被害者は長い時間をかけて追い詰められ、信頼できる大人にも守られず、心の中で何度も何度も
「自分の人生が壊れていく」
感覚を味わってきたのではないでしょうか
その果てに、
「自分の人生が壊れてもいいから、せめて相手の人生も終わらせたい」
という極端な思考に変質してしまうのです
広陵高校の件も、各地で起きている性加害の告発も構造は同じです
そして被害者がSNSに頼らざるを得ない状況は、個人の復讐心だけで説明できるものじゃないとも考えます
むしろ、周囲の大人や組織が機能不全に陥り、被害者が
「正規のルートでは救われない」
と確信してしまった結果として生じる「爆発」です
告発者も罪に問われるかもしれません
しかし、本来守るべき立場にあった大人たちがなぜ気づけなかったのか、なぜ止められなかったのかを問う必要があります
SNSでの告発は、被害者にとって最後の出口であり、同時に社会に向けた悲鳴、SOSでもあります
一人の人間が復讐に人生を投げ出すほど追い詰められる前に、周囲がどれだけ早く気づき、寄り添い、介入できるか
その体制を整えられなければ、同じ悲劇は何度でも繰り返されるのです
私自身は、告発者を軽々に責められないな と…
そして、不確かな誤情報などで更に混乱と冤罪を招く可能性
いじめ加害者の更生の可能性
を考えれば、
正義感でそれを拡散することできない、するべきでない とも同時におもいます
学級担任制の閉鎖性や、教員の観察力・記録力の個人差が、いじめを見えにくくし、隠蔽を生みやすい環境や構造を生み出しているのでないか
と考えます
「いや、一部の教員や組織が腐敗しているだけで、教員は一生懸命取り組んでいる」
その意見も分かりますし、実際そうなのです
しかし、SNSにおいてはその意見に信頼性を帯びさせるほどの発信を教員はしてきたでしょうか
保護者への愚痴、子どもの愚痴
自分達がいなくなれば困るだろう という嘲りと冷笑
自分達の責任や知識のなさは棚にあげて誰かのせいにする態度
責められれば自分たちは被害者であるという他責思考
それらを見ていると
「一生懸命取り組んでいるのは法は嘘で、腐敗が進んでるのが本当」
と思われても仕方ないのではないか?
教員の過重労働はあります
しかし専門性の不足もあります
忙しさを理由に、いじめの兆候を見逃したり、記録を残さなかったり、子どもの訴えを「よくあること」と軽視したりする姿勢は、専門職としての責任を果たしているとは言い難いです
特に
「いじめの収束がどのように行われたか」
被害者、加害者双方の納得でのいじめの収束になったのか
被害者側の納得で終わったのか
加害者だけの納得で終わったのか
ここの記録や対応が曖昧過ぎます
札幌の件でもそうでしたが、
「加害者だけが一方的に守られ、被害者の人権が全く守られていない」
事例でした
こういった学校組織の「閉鎖性」は深刻です
外部の目を避け、内部で処理しようとする体質の表れでもあります
データがなければ、「それはない」と言い張れます
しかし、今の教育界を取り巻くこういった「不信感」の中でその主張を通そうとする態度があるのなら、それは誰も耳を傾けないでしょう
こうした状況が続く限り、いじめの件数は今後も増え続けるだろうし、重大事態が減る見込みも薄いと考えます
学校が「努力」で乗り切れる段階はとうに過ぎており、システムそのものを再設計しなければ、いじめは減らないのです
頑張っている教員はいます
実際に連携をとっていましたし、研修に一緒に参加したり、ケース会議で情報交換を行い、支援を共有したりしました
頭が下がりますし、尊敬できる職業が「教員」です
しかし、一部の人だけが頑張っても一部の人間が足を引っ張ったらどうにもならないのです
SNSでの倫理を無視した不用意な発信や、現実での不合理な対応を目の当たりすると「教員」という一括りで評価されます
教員の専門性の格差はさらに広がり、力量のある教員とそうでない教員の差が、子どもの安全に直結する時代になりえます
あと、私はこれだけは言いたいことがあるのですが…
というか教育界における発達支援の課題についての時も同じようなことを言っていましたが…
「~のプロに任せよう」という発言はやめましょう
「他の専門職と連携とってお子さんの教育をよりよくしよう」
なら大歓迎です
しかし、上記の発言には他の専門職に対しての知識やリスペクトがなさすぎます
どの程度どの役割をどの期間これくらいの予算でこれくらい人員 で任せるか、委託して自分たちはここを担当する
という具体的な案を出して相手から承認を得て初めて連携が成り立ちます
相手の専門分野や具体的にできる対応を知らないで
「自分達はこれだけやりたいので後はお任せします」
なんて許されるはずがない
しかも、教員という
「一番目の前で子ども達と関わってる人間が」
です
「自分達は授業が~」なんて理由にもなりません
正直こういった発言が出る段階で、今までの教育界隈の
「聖域化」「孤立化」「不遜化」
がにじみ出ています
これが「世間知らず」と言われる所以なんです
こういうことを言うと
「自分達のことも知らないではないか」
と反論が出そうですが、それがいままで教育界隈が積み上げてきた実績なんです
誰かのせい、見て見ぬふり、放置を繰り返してきたツケなのです
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