「なにもできない私」を演じてれば、責任取らなくて済むから楽だ

寄り添わない心理カウンセラー【Y】:代表
こんにちは🍵
自分で「無力な私」を演出して、逃げ続ける人には寄り添わない心理カウンセラー【Y】です
「私なんて…」「どうせ無理です」と言いながら、助けられるのを待ってる人、あなたの周りにもいますか?
そういう人ほど、そういう方面についてはよく工夫します
なぜなら「できない自分」を使えば、行動しなくて済むし、失敗して責められることも避けられるからです
今回は、その“無力アピール”の裏側にある心理を暴いていきます
「できない」と言えば、守ってもらえる
「できません」「無理です」「自信ないです」と言うことで、自分を守る人がいる できるかもしれないのに、最初から挑戦しなければ、傷つかなくて済む
そうやって“安全地帯”に逃げ込むのは、責任からも感情からも逃げたいからとなる
無力を装うことで、責任を回避
「私は何もできない」という立場にいれば、何か起きたときに責められない なぜなら「最初から頼りにされてなかった」というポジションを確保できるから
しかしそれは、いじけた生き方と言える
いじけた生き方というのは、とてもみじめに見える
みじめというのは、誰にでも自慢できるような美しい生き方をすべきという意味ではなく、普通より劣っているという意味だ期待されるのが怖いからと、最初から期待を裏切る準備してるだけでは、幸せにはなれない
自ら、人生をムダにしている
「無理」という言葉は万能な逃げ道
「無理」という言葉は、最強の免罪符だ
誰にも反論されにくいし、それ以上話を深掘りされなくなる
けど本当に無理かどうかは、自分でも確認してないことが多い やる前から「無理」と決めつけて、責任を避けるために使ってるだけ
周りに甘えるための戦略と言える
「できない私」でいると、誰かが手を貸してくれる それが心地よくて、だんだんと“できない自分”を演じることが癖になっていく
それは優しさではなく、依存だ 相手に負担をかけ続けてることに気づかないと、人はいつか離れていく
心理カウンセリングでもあるある
「何から始めたらいいか分かりません」と言う人に、具体的な提案をすると 「でも…」「それは…」「うーん…」と返ってくる
結局、“何もしないための相談”になっている できない私でいれば、動かなくて済むし、自分の責任にならないから楽
自分の評価を他人に任せてる
できない私でいると、誰かが評価してくれるのを待つようになる 「私は頑張ってると思いますか?」と聞いて、認めてもらえたら安心する
でもそれは、自分の人生のハンドルを他人に渡してる状態だ 評価がもらえないと、自分が不安定になる生き方になる
被害者と依存者は紙一重
「私はできない」「だから助けて」という言葉は、優しそうに見えて強烈な支配性がある 助けなかった人を“冷たい人”にして、自分を“可哀想な人”にする構図
その裏で、責任を持たずに人生を進めようとしている でも、それって結局“誰かに生かされる人生”になるだけ
「できない私」をやめた瞬間から変わる
自分を甘やかして「できない」と思い込んでるうちは、何も変わらない けど逆に言えば、「できるかもしれない」と少しでも思った瞬間から、現実は動き出す
勇気より先に必要なのは、自己演出をやめる決断となる
本当に弱い人は、静かに努力してる
本当に無力な人は、他人にアピールする余裕すらない 誰にも見せずに、こっそり頑張っている
一方で「無力アピール」ができる人は、まだ余裕がある証拠 その余裕を使って、本気で何かに向き合った方がいい
逃げても責任はついてくる
逃げても、選ばなかったことの責任はついてくる 何もしない自由には、何も得られないという代償がある
そして何年も経ってから「もっとやっておけばよかった」と後悔する そのときには、もう取り戻せない
自分で選ぶ覚悟を持て
誰かに助けられる人生を続けるか、自分で決める人生に切り替えるか 選ぶのは自分しかいない
他人を助ける余裕のある人が少ない事は、少し考えればわかる事だが、それすらわからないままでいる人生を続ける
それもアリだ
別にそれであなたがどうなろうと、あなたが選ぶ人生だから、責任はあくまであなたにある
その事すらわからないかもしれないが、それでも良いと思う
しかし逆に、あなたの人生は、あなたが選ぶようにしたとする
あなたが選んだ道なので、あなたの責任だ
選択に責任を持てるようになり、しっかりと選択するようになるかもしれない
自分で決める人生に切替える事が出来れば、その瞬間から人生は変わっていく
今後も寄り添いませんが、続きが気になったら「スキ」で応援しておいてください
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