年度末の午前中、久しぶりに日本橋に来た。
日本橋交差点と呉服橋交差点をつなぐ八重洲通りは、僕にとってとても懐かしい場所だ。今から30年前、この場所に頻繁に通っていたからだ。
呉服橋交差点に大和証券の本社があり、交差点の対角線の反対側には住友海上火災の東京本社があった。今は高層ビルに建て替わっているが、当時は両社とも10数階建のビルだったと思う。昭和が終わる頃である。
その頃、僕は勤めていた採用PR会社で営業マンをしていた。大和証券と住友海上の2社が僕にとってのビッグクライアントで、年間で5,000万円くらいの仕事を発注してもらっていた。それで、毎週1回はこの2社を訪問していたのだ。
大和証券の人事課長は同じ長野県出身の先輩で、とても良くしてもらった。住友海上の採用担当者は新しもの好きの人で、僕らの尖った企画を面白がってくれた。この2社を担当したことで、僕は営業という仕事が好きになり、幾ばくか成長させてもらったように思う。
ある時、僕のチームに配属された新入社員の女性に、この2社へのお遣いを頼んだ。パンフレットの校正刷りを届けるような用件だった。宅配便だと到着は翌日になってしまう。バイク便もあったが料金が高かった。地方の国立大学出身の彼女に東京の地理を覚えてもらうという意味もあったような気もする。
夜、その新入社員が書いた日報に目が止まった。彼女はこんなことを記していた。
「今日、トラフィックで大和証券に行きました。5、6人の男性社員の方たちとエレベーターに乗り合わせたのですが、みんなダークスーツにネクタイ姿で、少し緊張しました。同じ箱に乗って、上の階までスーッと上がっていく時、これから自分はこういう会社で、こんな人たちをお客さんにして仕事をしていくんだ、という実感がわいてきました。…」
大企業の人事部は、たいてい本社ビルの上層階にある。乗り合わせた人たちは、人事部があるフロアの一つ下、赤い絨毯が敷かれた階で降りたというから、役員とその部下の方たちだったのだろう。緊張した面持ちでエレベーターの隅に立ちすくむ姿を想像して、少し心が和んだ。
大企業の本社ビルのエレベーターに初めて乗り、学生時代とは人種が違う人たちの横に立ち、これまでにはない緊張を抱いた彼女の感受性は、なにかとても大切なもののように感じたことを思い出す。
数年後、彼女はとても優秀な編集ディレクターになった。(残念ながら名前が思い出せない)
4月になると新入社員が一斉にこの街を歩く。どうか、最初に覚えた昂揚感や違和感を忘れずに。それを温め続ければ、きっと何者かになれる。