1
夏の終わりの夕暮れ。駅前のロータリーで立ち尽くしたまま、私は胸の奥がじんじんと痛むのを感じていた。 「ごめん。好きな人ができたんだ」 そう言った彼の顔が、何度も頭の中で繰り返される。
高校に入学してすぐ、同じクラスになった彼に恋をした。私がロングヘアを大事にしてきたのも、全部彼が「長い髪が似合う」って笑ってくれたからだ。ドライヤーの時間も、リンスの香りを選ぶことも、朝のストレートアイロンも……全部、彼に見てほしくて。
なのに――もう、その理由はなくなってしまった。
夜、自分の部屋で鏡を見つめる。胸まで伸びた黒髪。 撫でても、梳かしても、心は少しも晴れない。 「……もう、いらない」 呟いた瞬間、決意は固まっていた。
2
翌日の午後、私は美容院のドアを押した。ガラス越しに差し込む陽射しが、椅子と鏡をやわらかく照らしている。 「いらっしゃいませ」 迎えてくれた女性美容師に、私は少し緊張しながら言った。 「肩につかないくらいに……バッサリ切ってください」
鏡越しに、自分の目が赤いのを見て少し恥ずかしくなった。きっと失恋したってバレてる。
クロスをかけられ、髪を後ろでゴム留めされる。 「じゃあいきますね」 美容師がハサミを構える。
――ジョキンッ。
首筋に伝わる振動。 床に、太い髪の束が落ちた。 「……!」思わず息を呑む。 次々と鋏が入り、黒い滝が肩から離れていく。 膝の上に、切られた髪がはらはらと積もっていくたび、胸の奥に熱が生まれる。
「ここまで短くするの、初めてですか?」 「……はい」 声が震えたのを、自分でも感じた。
髪が肩に触れなくなり、頭が軽くなる。切られている最中なのに、不思議と胸が高鳴る。失恋の痛みより、髪が落ちる快感の方が強くなっていく――そんな気がした。
やがて仕上げのブローを終えると、鏡の中には「ボブ」の私がいた。 「わあ……」 小さく息をもらす。軽い。すごく軽い。 触れると、毛先が首筋をかすかに撫でて、鳥肌が立つ。
けれど、見つめるうちに胸の奥にざわめきが生まれた。 ――まだ足りない。 もっと短く。もっと新しい私に。

3
ボブに仕上がった自分を鏡越しに見ながら、胸がざわめいていた。 ――まだ足りない。もっと切りたい。 さっきまで涙で曇っていた心に、熱がどんどん溢れてくる。
「すみません……」 美容師に声をかけると、彼女が優しく振り返る。 「はい?」 「もっと……短くしたいです」 「もっと、ですか?」 「バリカンで……ショートにしてください」
言葉を口にした瞬間、鼓動が跳ねた。 美容師は驚いた表情を浮かべたが、すぐにプロの笑みを返した。 「……いいんですか?かなり変わりますよ」 「はい」 自分でも驚くほど、迷いはなかった。
4
美容師がワゴンから黒いバリカンを取り出す。 コードが揺れて、銀色の刃が光る。 ――ブゥゥゥゥン……。 スイッチが入った瞬間、低いモーター音が空気を震わせた。
耳に届く振動音が、心臓の鼓動と重なっていく。 首筋に汗がにじむ。手のひらまで熱くなって、膝の上でぎゅっと握りしめる。
「じゃあ、いきますね。耳の後ろから……」 美容師の声と同時に、ひやりとした金属が首筋に触れた。
――ゾクッ。 背中を電流のような震えが走る。
5
「はじめます」 バリカンが動き出す。 ガリガリと髪を押しのける音、頭皮に直接伝わる微細な振動。
耳のすぐ下を通り抜けるとき、ブーンという唸りが骨に響いて、思わず小さく息が漏れる。 「……っ」
視界の端で、長さを残していた黒髪がまとめて押し出され、肩を滑り落ちていった。 床に広がる黒い束。 それは、さっきまで自分を覆っていた過去そのもの。
「すごい……どんどん軽くなる」 思わず呟くと、美容師が微笑んだ。 「バリカンの感触って、独特ですよね」
彼女の言葉通り、金属の刃が頭皮の表面を走るたび、頭がじんじんと熱を帯びる。 後頭部、襟足、こめかみ……。 バリカンが動く方向に合わせて、髪が押し流され、肩から膝へと落ちていく。
耳の横を撫でられるたびに、細かい産毛までもが震え、全身に鳥肌が立つ。 クロスの下で足の指まで力が入ってしまう。
6
「じゃあ、こっち側もいきますね」 左耳の横に刃が当てられる。 ブゥゥゥン……と音が大きく響き、細かな振動が顎の奥まで届いた。
ズズッ、と毛束が持ち上げられ、あっけなく床へ落ちていく。 耳が完全に露わになった瞬間、頬を風がかすめるような感覚があった。
「……っは」 吐息が漏れ、胸が上下する。
「すごく思い切りましたね」 「……はい」 声が震えてしまう。
7
後頭部全体にバリカンを通し終えると、頭が信じられないほど軽くなっていた。 首を振ると、風がすぐに地肌を撫でていく。 残っていた毛先を鋏で整えられ、ドライヤーで軽く乾かされる。
鏡に映った私は、すっかりショートカット。 耳も首筋も完全に出ていて、もうロングだった面影はない。
「どうですか?」 「……すごい……気持ちいい」 自分でも笑ってしまうくらい、胸が高鳴っていた。
クロスを外すと、肩には切り落とされた髪がまだ残っていた。指先でそれを拾い上げると、さっきまで自分を覆っていた髪の重みが信じられなくなる。
「こんなに……あったんだ」 手のひらに乗る黒い髪の束を見つめながら、胸の奥で呟いた。
8
美容院を出ると、夏の風が一気に首筋を駆け抜けた。 「……っ!」 あまりの心地よさに、立ち止まって空を仰ぐ。
バリカンで剃られた部分に風が直に当たる感覚。 くすぐったいようで、痺れるようで、胸の奥がまた熱くなる。
歩くたびに、後ろから流れ込む風が頭皮に触れ、まるで新しい世界を撫でているみたいだった。 「もう、彼のために伸ばす必要なんてない」 私は私のために、この髪を選んだのだ。
軽くなった足取りで夕暮れの道を歩く。 失恋の痛みの代わりに、未来への鼓動が胸を満たしていた。