断髪短編小説 秘密の断髪

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断髪文学堂

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 その日の朝、私は鏡の前に立ち、自分の長い黒髪を見つめていた。 腰まで伸びた髪は、周囲からは「きれいだね」と言われることも多い。母も「女の子は髪が命なんだから」と口癖のように言って、切ることを許してくれなかった。 けれど、私の胸の奥にはどうしても消えない衝動があった。――この髪を、切りたい。

 ただ短くしたいのではない。 ばっさり、思い切り、もう戻れないくらいに。 鏡に映る長い髪を両手ですくい上げると、その重みが余計に私を苛立たせた。どうして、こんなに縛られなくちゃいけないのだろう。

 学校では友達から「ロング似合うね」「お姫様みたい」とからかわれることもある。でもそれは私の本当の姿じゃない。あの毛束の奥に隠れている自分を、どうしても解放したかった。

 放課後。 家に帰るふりをして、駅前の商店街を歩いた。制服姿のまま、手のひらにじっとり汗をかきながら。 ――あの店に入る。

 商店街の端にある、小さな美容室。 ガラス張りのドアから中を覗くと、店内にはお客さんが一人もいなかった。明かりが柔らかく灯っていて、静かな音楽が流れている。 私は心臓が破裂しそうになりながらドアを開けた。

「いらっしゃいませ」 振り返った女性美容師が、にこやかに微笑んだ。「今日はどうされますか?」

 一瞬、声が出なかった。 長い髪を切るなんて、母に知られたら絶対に怒られる。でも、だからこそ今しかない。 私は唇を噛んでから、小さな声で言った。「肩につかないくらい……ばっさり、切ってください」

 その瞬間、美容師の目がきらりと輝いた。「いいですね。じゃあ思い切り短くしましょうか」 私は無言で頷いた。

 ケープをかけられ、椅子に座る。 長い髪が胸の上で広がっているのを、美容師が両手でまとめる。「すごい長さですね。ここまで伸ばすの大変だったでしょう?」「……はい」「本当に切っちゃっていいの?」「……お願いします」

 その言葉を口にした瞬間、背筋に震えが走った。 美容師はにやりと笑い、大きなゴムで髪をひとまとめにした。 頭の後ろで、ずっしりとした一本の束になった髪。その重みが首筋にのしかかる。「じゃあ、いきますね」

 銀色のハサミが持ち上げられ、髪の根元に押し当てられた。 ――ジョキッ。

 空気を切り裂くような音が、すぐ耳元で響いた。 続けて、ジョキ、ジョキ、ジョキ……。 長年大事にしてきた髪が、まるで紙を裂くように無造作に切られていく。

 太い束が切り離されると同時に、首の後ろがふっと軽くなった。 ごそりと肩の上に落とされた髪の束を、美容師が手に取って見せる。「ほら、これだけ切りましたよ」

 それは私の腰まであった髪がそのまま縮小されたような、黒いロープのような塊だった。 指先が震えた。 本当に切ってしまったんだ――。

 その髪は机の上に置かれ、私はもう後戻りできなくなった。

 美容師はためらうことなく次の段階へ進む。 残った毛先を櫛ですくい、顎のラインでぱつんと切りそろえていく。 シャク、シャク……と刃が髪を断ち切るたびに、肩からさらさらと黒い髪が落ちていった。 視界がどんどん明るくなり、頬や耳が露わになる。

 耳のすぐ横で鳴る、ジョリッという小さな切断音。 それが何度も繰り返されるたび、体の奥から熱がこみ上げる。 頬に触れるはずの毛束が消え、代わりに冷たい空気が肌を撫でる。

 鏡に映る私は、もう別人だった。 ずっと顔を隠していた長いカーテンが消え去り、顎のラインでぱつんと切りそろえられた黒髪ボブ。 首筋が白く、細く、むき出しになっている。

「似合うよ。すごく大人っぽくなった」 美容師がにこやかに言った。 私は鏡から目を逸らせず、ただ呆然と自分を見つめていた。

 頬を撫でると、もう髪はなく、指先には生まれて初めて触れる自分の輪郭があった。 床に散らばるのは、これまでの私の象徴だった黒い毛束たち。 その光景に、胸の奥で何かがぞくぞくと震えた。

 仕上げのドライヤーをかけられる。 軽い毛先がふわりと舞い、顎の横でしっとりと揃う。 髪の重さから解放された頭が、まるで浮かんでいるように軽い。

 美容師は最後に手鏡を渡してくれた。「どう? すっきりしたでしょ?」「……はい」

 声が震えていたのは、驚きと興奮とが入り混じっていたからだ。 私はもうロングの少女ではない。 鏡の中のボブの私が、まるで別の人間のように新鮮で、そして艶めいて見えた。

 帰り際、切った髪の束をビニール袋に入れて渡された。 ずしりと重いその感触に、背筋が再び震える。「記念に持って帰ってもいいですよ」「……ありがとうございます」

 外に出ると、夜風が頬を撫でた。 いつもなら髪が風に揺れるはずなのに、今は素肌に直接吹きつける。 その感覚に胸がどきどきして、思わず笑ってしまった。

 街灯に照らされるショーウィンドウに映るのは、見知らぬ少女。 顎ラインの黒髪ボブが光を反射し、耳と首筋がまぶしく輝いている。 それが自分だと思うと、身体の芯から熱がこみ上げてきた。

 母に見つかれば叱られるだろう。 でも今は、そんなことどうでもよかった。 私は自分の髪を、そして自分自身を解放した。

 ――秘密の断髪。 その快感を、私はきっと一生忘れない。


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