断髪小説 夏、刈る、マネージャー

断髪小説 夏、刈る、マネージャー

断髪文学堂

断髪文学堂

第一章 汗を吸った髪

体育館の空気は、まるで真夏のコンクリートの上に閉じ込められたようだった。重く、湿って、肌にまとわりつく。大きな扇風機がうなりを上げて回っているが、その風は跳ね返されるだけで、熱を取り除くことはできなかった。

高橋奈々は、その蒸し暑い空気のなか、コートの隅に立っていた。女子バスケットボール部のマネージャーとして、タイマーを持ち、タオルを配り、ペットボトルのキャップを外す。雑務を器用にこなしながらも、ふとした瞬間、無言の視線を部員たちへと送っていた。

選手たちの髪は、みな驚くほど短くなっている。ボブ、ショート、いや──それを超えて、襟足まで刈り込んだ「ベリーショート」が主流になっていた。千夏が言うには、「夏の体育館じゃロングは地獄」だそうだ。

「髪切ってから、練習に集中できるようになった気がする」 「汗が垂れてこないだけで、こんなに快適なんだね」

そんな声を、奈々は聞いていた。目の前に立つ部員が、ボトルの水で前髪を濡らしながら笑う。眉上で止まる前髪の奥には、確かな意志と体温が宿っていた。

対照的に、奈々の髪は今も長い。黒髪のポニーテールは、いつも通り高めの位置で束ねている。バンダナで額を覆い、汗を吸わせながら首筋を隠してはみるものの、少し動くだけで髪が首に張り付く。その度に、苛立ちと焦燥が混じった思いが胸に広がった。

「私は選手じゃないから──」

そう自分に言い聞かせていた。マネージャーは裏方だ。目立つ必要はないし、髪でパフォーマンスが変わるわけじゃない。でも、選手たちが躍動するのを見つめているうちに、何かが胸の奥でざわつき始めていた。

奈々は、自分の髪を指で引っ張ってみた。汗を吸って重くなったポニーテール。ゴムを外せば、肩まで落ちる濡れた髪束。鏡を見ると、自分だけ季節に取り残されたような気がした。

部活が終わったあと、奈々は自転車に乗って帰路についた。夕暮れの街を風が通り抜ける。短髪の部員たちが感じている“涼しさ”を、自分も感じてみたい──そんな思いが、ふと胸をかすめた。

その夜、奈々は洗面所に立って髪をとかした。手元の櫛が髪の間を滑るたびに、まとわりつく暑さが甦る。

「私だけ、違う気がする」

それは髪の長さのせいなのか、マネージャーという立場のせいなのか。彼女はまだ分からなかった。ただ、コートの中で汗を輝かせる部員たちの姿が、まるで別世界に思えた。

第二章 ボブに落とす夜

火照った足を冷房の効いた美容院のフローリングに乗せると、それだけで体温が少し下がる気がした。制服の襟元を指先で広げながら、高橋奈々はソファで順番を待っていた。

「お待たせしました、高橋さんどうぞ」

案内されて鏡の前に座ると、美容師の女性がにこやかに頭を下げる。奈々も軽く会釈して、自分の髪を見つめた。肩より長く、濃い黒色で、日差しを浴びると艶が浮かぶ。その髪に、ずっと“自分らしさ”を託していた。

「今日はどうされますか?」

美容師にそう尋ねられたとき、奈々は一瞬、言葉が詰まった。でも思い切って声にした。

「…かなり短めのボブにしたいです。後ろ、襟足ぎりぎりまで」

「分かりました。では肩より上まで、ざっくりいきましょうか」

鏡越しに見た自分の顔が、少し緊張している。切る。長年伸ばしてきた髪を、今日、自らの意思で捨てる。

ハサミの音が軽快に響き始めた。最初の一束が切り落とされた瞬間、肩が急に軽くなった気がした。髪はスローモーションのように床に落ちていく。

「首まわりスッキリすると、涼しく感じますよ」 「はい…すでに風が通る感じです」

鏡の中の自分が少しずつ変わっていく。輪郭がはっきりして、目元の印象が鋭くなる。美容師が丁寧に襟足を整えていくと、冷たい空気が首筋を撫でていった。

30分後、奈々は短くなった髪を指でそっと撫でた。すっかり軽くなったボブスタイル。前髪は眉の上、耳元はすっきり。鏡の奥にいるのは、「誰よりも部活に本気になりたい」と願う自分だった。

支払いを終えて店を出ると、夕暮れの街に風が吹いていた。髪が揺れる感覚は、もうない。代わりに、首筋に確かな涼しさがあった。

帰宅して制服を脱ぎ、洗面台の前に立った奈々は、鏡をじっと見つめた。ボブにしたことは、間違いじゃなかった。でも──

「まだ足りない気がする…」

その感情は、ボブになった自分に満足できなかったという意味ではない。むしろ、変わりはした。でも、自分が望んでいる“変化の本質”は、もっと奥にある気がした。

パジャマに着替えてベッドに入っても、その感覚は消えなかった。スマホを手に取り、検索バーを開いた。

「女子 坊主」「バリカン 自分でやる」「断髪 ベリーショートより短く」

指が止まったのは、坊主頭になった女性たちの笑顔が並ぶページだった。飾らない、潔さ。まっすぐに生きる決意のようなものが、そこにあった。

「髪を切ることで、何かを捨てたかったんだ」 「でも本当に捨てたいのは…髪の“長さ”じゃなくて、“守り”かもしれない」

楽天市場に移動し、「初心者向けバリカン」を検索。レビューが安定していて、ヘッド調節機能付きのシンプルなモデルを見つける。手の平に収まるサイズで、振動も静か。写真のモデルが、鏡の前で迷いなく剃っている姿が印象的だった。

「これなら、自分にもできるかも」

迷いなく「購入する」をタップ。クレジットカード情報を入れる手が震えていたのは、恐怖ではない。期待と覚悟が入り混じった、いわば“人生のスイッチ”を押す瞬間だった。

注文完了の画面が現れる。 「商品は2〜3日以内に発送されます」

画面を閉じ、奈々はベッドの中で息をついた。明かりを消すと、窓から夜風が入り込んできた。髪はない、でも風は感じる。自分の身体が、世界に一歩、さらけ出された気がした。

第三章 箱が届く日

インターホンの音に胸が少し跳ねた。奈々は階段を駆け下り、ドアを開ける。クロネコヤマトのロゴがついたダンボール箱──予定より1日早く届いた。

「はい、ありがとうございます」

受け取った箱は軽くて、両手にすっぽり収まった。手のひらに広がる段ボールの感触と、その中身の意味が重なり、胸の奥がじんわり熱くなる。

部屋に戻り、慎重に開ける。包装紙の下から現れたのは、艶のある銀色のボディ。バリカンだった。  静かに電源を入れてみる。小さく「ヴィィィ」と振動が始まる。音は思っていたほど大きくない。手のひらに微かな震えが広がる。

奈々は鏡の前に立ち、ボブになった自分をじっと見つめる。首元はすっきりしている。でも、目の奥がまだどこか迷っている。

「この先に何があるのかは、やってみなきゃ分からない…」

その夜、奈々はバリカンを箱ごとスクールバッグに忍ばせた。明日、誰かに頼もう。自分一人ではきっとできない。でも、仲間なら──。

翌日、体育館の熱は昨日と変わらない。部員たちはベリーショートの髪を揺らしながら、コートを走り回っていた。

「水、回すね!」 「タイム計ってる、ラスト一本!」

奈々はマネージャーノートを操作しながら、バッグの中にある箱を何度も意識した。鼓動が速くなる。昼休み、全員がベンチで給水をしているとき──意を決して、奈々は口を開いた。

「あのさ…お願いがあって」

部員たちが顔を上げる。その視線が、一斉に奈々に集まった。

「実は…昨日、バリカン買ったの。坊主になりたいの。みんなに、お願いしたい」

一瞬、沈黙が体育館を包んだ。部員たちは驚いたように顔を見合わせる。でも──次の瞬間、美羽が口を開いた。

「マジで? やるじゃん、奈々!」 「うちらがやっていいの? 楽しいかも」 「じゃあ、順番決めようよ!」

場の空気が、熱と笑いで満ちていく。凜が小さく拳を握り、「任せて」と言った。その言葉に、奈々は思わず微笑んだ。

帰り際、洗面所の前に椅子を置き、バスタオルを肩にかける準備を始める奈々。箱から銀のバリカンを取り出しながら、手の中の震えを感じていた。

「やるなら、今しかない」

鏡には、笑っている自分。心の奥にある恐怖は、仲間の存在によって、そっと溶けていくようだった。

第四章 ジョリ、と音が鳴る

洗面所の鏡の前、いつもは歯を磨くだけだったその空間が、今夜は断髪式のステージになった。椅子に座った奈々は、首にバスタオルを巻いて静かに息を吐く。心臓の音が大きく感じられた。

「本当にいいの?」 「うん。お願い」

ボブになったばかりの髪。まだ美容院の匂いがわずかに残っている。でも、それを“壊す”覚悟はできていた。バリカンが仲間の手に渡る。

スイッチが入る。低い、静かな振動音。「ヴィィィィィ」。  美羽が最初に後頭部にバリカンをあてた。

「じゃあ、いくね…」

刃が髪に食い込む。ジョリ──。初めての断髪音が部屋を満たす。奈々は頭皮に直接触れる振動と、刈られていく髪の感覚に、目を閉じた。

「すご…意外とあっさりいくね」 「もう半分くらい終わったかも」

次に凜がバリカンを引き継ぐ。彼女の手つきは丁寧だった。サイドを一定のスピードでなぞると、耳の上がすっきりと露わになる。

「似合ってきたじゃん」 「え? 本当?」 「うん、覚悟が顔に出てる。かっこいいよ」

奈々は目を開ける。鏡の中には、少しずつ髪を失っていく自分がいた。もみあげを残していた部分が、ついに刈られる。鏡越しに見える仲間たちの目は、どこか誇らしげだった。

前髪の最後の一線。千夏が静かに近づいてきて、「前、いくね」と言った。

刃が眉のすぐ上に当てられ、中央をまっすぐに走る。ジョリジョリと、視界にあった“フレーム”が消える。

「終わったよ」

凜がそう告げて、スイッチを切った。静寂が戻った。タオルに落ちた黒髪の束。バリカンの銀色が、やけに眩しかった。

奈々はゆっくり鏡を覗き込む。丸坊主。どこにも逃げ場のない、自分の顔。でも──不思議と涙は出ない。

「笑えるくらい、自由だ」

誰かが拍手をした。「お疲れ!」という声が、どこか祝福のように響いた。奈々は鏡を見ながら、思った。

「これは、私の決意のかたち。汗も、覚悟も、全部剥き出しになった」

第五章 坊主のマネージャー

体育館に入った瞬間、風が首筋にすっと通り抜けた。坊主頭の奈々は、タオルとタイマーを持ちながらまっすぐにコート脇へと歩いていった。

部員たちが、一瞬手を止めて奈々を見つめる。

「えっ、ほんとにやったの!?」 「奈々…すごい、似合ってる!」

驚きの声が響いたあと、すぐに歓声と笑顔が溢れる。美羽が手を叩きながら駆け寄ってきた。

「えらい!うちらの仲間、坊主仲間だ!」

奈々は少し恥ずかしそうに笑った。でも、その笑顔には確かな誇りが宿っていた。髪を捨てたことで、自分の中にある「距離」がなくなった気がした。

マネージャーノートを開いて、練習メニューを確認する。タイマーをセットして、次のメニューへ移る合図を送る。その動作の一つひとつに、体温が通っているようだった。

汗は流れる。制服の袖は湿って、額には細かな水滴がにじむ。でも、髪はない。首筋を伝う風と、肌に直接触れる空気が心地よい。

「奈々、その坊主、かっこいい!」  「てか、試合の日もそれで来てよ!ウチら勝てる気しかしない」

千夏が笑いながらそう言ったとき、奈々は「あはは、考えておくね」と返した。けれど内心では、これが自分の“決意の制服”になる予感がしていた。

その日の部活の終わり、奈々は部員たちが給水している間に、ノートの端に小さな文字を走らせた。

「汗と一緒に、髪も捨てた。 でも手元に残ったのは、あのとき踏み出した一歩。 これは、私だけの青春の形。誰よりも近くで、みんなの熱を感じられる位置にいる。 それが嬉しい。風が、私の頭を吹き抜けるたび──、ちゃんと今を生きてる気がする。」

そして、奈々はノートを閉じ、体育館の片隅でみんなの練習を見守った。坊主の頭には、これまでの迷いやためらいがすっかりなくなっていた。

番外編

部室には独特の熱がこもっていた。試合前日の練習を終え、汗と興奮が残る空気。部員たちは、それぞれに荷物を整理しながら、どこか落ち着かない様子だった。

「明日、いよいよだね…」 「相手は去年ベスト4。緊張してきた」 「でも、今のうちらならやれる気がする」

そんな声が飛び交う中、奈々が静かに手を挙げた。

「ねえ、今日…みんなで、坊主にしない?」

一瞬、空気が止まった。だがすぐに、美羽が「やる?マジで?」と笑った。

「明日勝つとかじゃなくて、全員で“挑む”ってことを形にしたい」 「私だけじゃなく、全員で髪を捨てる。背負ってたものをゼロにして、スタート切りたい」

数秒の沈黙の後──凜が立ち上がった。「うん、いいと思う。うちら、どこまでも一緒に行こう」

「バリカンある?」 「奈々の引き出しに2台、充電済み」 「じゃ、誰からいく?」

千夏が迷いなく椅子に座った。制服のシャツを脱ぎ、バスタオルを肩にかけた。「やっちゃって、潔く」

美羽がスイッチを入れる。ジョリジョリ──。サイドが削られ、襟足が露わになる。「あー、めっちゃ涼しい!テンション上がる!」

次は凜、続いて美羽、そして千夏が奈々を刈る。「刃を滑らせるとき、自分も捨ててる気がするね」

部室は笑いと沈黙が入り混じる。一人が丸められるごとに、仲間たちが拍手する。決して強制じゃない。ただ、選ぶだけ。それぞれの覚悟を“頭”に刻む。

「今だけは、勝ち負けじゃない。覚悟の数が、うちらの強さ」

最後に奈々が鏡を持ち出し、全員の頭を並べて見た。

誰もが坊主。誰もが真っ直ぐ。髪をなくしたことで、顔の奥に宿ったものが浮き彫りになる──信頼、挑戦、仲間意識。

「明日、楽しんでこよう」 「うちら、もう怖いもんないし」 「この頭で、一番かっこいいバスケ見せようぜ」

部室の天井を仰ぎ見ながら、奈々はそっと思った。

「髪はなくても、熱がある。 それが、青春ってやつでしょ」


あなたも記事の投稿・販売を
始めてみませんか?

Tipsなら簡単に記事を販売できます!
登録無料で始められます!

Tipsなら、無料ですぐに記事の販売をはじめることができます Tipsの詳細はこちら
 

この記事のライター

断髪文学堂

髪を切る瞬間の緊張と高揚感、長い髪を失う決断の先にある物語、そのすべてをお届けします ご覧いただいた後にフォローいただけると創作意欲が出ます。ぜひお願いします。

このライターが書いた他の記事

  • 断髪小説 兄ちゃんと私の断髪物語

    ¥500
    1 %獲得
    (5 円相当)
  • 断髪小説 雨の日の約束

    ¥400
    1 %獲得
    (4 円相当)
  • 断髪小説 水に映る坊主頭

    ¥400
    1 %獲得
    (4 円相当)

関連のおすすめ記事

  • 自伝 〜あきらの記憶〜プロローグ

    ¥210
    1 %獲得
    (2 円相当)
    しおんたん

    しおんたん

  • HONEY WHISKY

    ¥1,800
    1 %獲得
    (18 円相当)
    芍薬椿

    芍薬椿

  • ぽっちゃりへの道~大学生編~

    ¥500
    1 %獲得
    (5 円相当)

    shinobu